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彩遊記
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新年好
パソコンの棚卸をしていたら、出てきたのだけど
なんか、いいなあ~。
あの新年の瞬間の爆竹のすごさは、思わず参りました。・・だった。
なぜかアジアの魂が共振するのか・・涙で頬をぬらしていた。
中国は新年(旧正月)なんだな~・


↓過去の日記から

旧暦の正月、春節を迎えた。この原稿を書いている桂林の部屋の下では、子供たちが投げる爆竹がビュンビュン飛び交っている。悪童たちは、見知らぬ人の足元に、そしらぬふりをして投げてみたり、道路向こうの家に向かってバンバン、ドーンとまるで戦闘状態だ。水平打ちだけはやめろと注意したのに聞きゃしない。水墨画の師匠の昔話では、春節は花火から身を守るため、傘をさして水中眼鏡をかけて歩いていたという。
 
旧暦の大晦日。夕方5時を過ぎる頃から、通りを走る車の流れが少なくなり、街を歩く人影もまばらになった。一族そろっての「年夜飯」と呼ばれる晩餐がはじまる。およそ華人のいるところではこの時間に家族が集まり、食事をすることは非常に大切にされている。僕のほうは、休み期間中バイトで学費を稼ぐ学生や、はるか新彊ウイグルから来て、簡単に帰省できない学生たちと、学校が準備してくれた年越の宴に参加する。帰省できない学生たちの表情は心なし寂しそうだ。
 
もう待ちきれませんとばかり、大晦日の昼すぎから、バーン、バーンと散発的に鳴り始めた爆竹は、「年夜飯」が終わるころから、バリバリバリと連続した音に変わりはじめた。駐車してある車のセキュリティーが、爆竹の音に反応し、ウインウインとけたたましく鳴り響く。人通りの少なくなった街中は、火薬のにおいと、硝煙に包まれた不思議な世界だ。 
 
年越しに、爆竹をバンバン鳴らすのは悪魔を払い、福を歓迎する意味がある。同僚の中には、よくないことが続くと「爆竹を鳴らすのが足らなかったかなぁ?」とぼやくヤツもいるくらいだから、爆竹の音は、彼らの生活にしっかりと組み込まれているみたいだ。しかしこの爆竹、毎年のことだが、粗悪品による暴発や火事が多発して、主な都市では、本当は禁止されている。「新年気分が沸かない」との多数の声に押し切られ、“表向きでの禁止”から、13年ぶり“お墨付での解禁”とあいなった。

夜11時半、日没から鳴り響いていた花火と爆竹が“年越の瞬間”に向け小休止。僕は、一年で最大のショーを見るために、とっておきの場所に移動することにする。以前住んでいたことのある勝手知った17階の屋上だ。
 
11時50分頃から、再び爆竹と花火の音は激しくなる。夕方とは違うあまりの音の激しさに、形容しがたい不思議な感覚が襲ってくる。桂林の街全体が、半端じゃない花火と爆竹の音に包まれた。アパートの各ベランダで爆竹が裂烈し、ビルの屋上からは大輪の花火がバンバン打ち上がる。その花火の大きさ量ともに半端じゃない。きっとこの瞬間のために、散財したのであろう。ちなみにベランダでの使用は禁止なのだが、そんなことは、お構いなしだ。 
 
夜12時、いよいよ春節の瞬間を迎えた。音が激しすぎて耳が麻痺し、何にも聞こえてないような感覚になる。隣の屋上でも、目の前でも、山の上でもドンドン打ち上がる。スケールの凄さは鳥肌モノだ。思わず、参りましたと呟いていた。
 
もっとも、これだけバンバンやってくれると、嫌が応でもストレス発散。すっきり、くっきり新しい年を迎えられた気分だ。新年快楽!チャイナは新年を迎えた。 <終わり>

# by ogawakeiichi | 2012-01-23 06:14 | 只記録 | Comments(0)
デザインとフィールワーク
最近はデザイナーというより、文化人類学や民俗学みたいなフィールドワークの活動が多い。

デザイナーというとモノをデザインするように思われているが、モノをつくり、それを仕組み(コト)にのせ、インタラクティヴに人々の意識が交流していく世界を一貫して構築する行為をデザインと捉るわたしにとって、ベースをつくるため立ち上げ期において情報をインプットする観察はとてもたいせつな時間である。

そのため文化人類学や民俗学のようなフィールドワークのような時間が多くなってくるのだが、。。

地域ブランドはその土地をながれる歴史の文脈につなげて新たな物語りをつくっていくことが肝要だ。そうでない限り、その土地から立ち上がりその土地に根ざしたブランドにはなりにくい。

この時間が不足するとテンプレートにあてはめた金太郎飴。一般的にデザイナーはこの部分が全く弱い。←観察もないコンサルや代理店、印刷会社の営業の介在、またクライアントと合うのを面倒とするデザイナーなど。

場に固有のモノやシステムを構築する上で仮説をたてデザインしていくにはフィールドワークは重要な時間なのだが・・。

さてさて、現在徐福伝承のあるいちき串木野市において【パワースポットいちき串木野】というコンセプトを強化のため、1年に渡るフィールドワークが終わりつつある。そのレポートから・・



まずは、徐福を知らない人のため、むちゃわかりやすい 奈良文化財研究所 飛鳥資料館倶楽部から、まるごとコピペ。

徐福伝承とは
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今から2200年前,日本が縄文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき,秦の時代の中国に徐福(じょふく)という人物がいました。実は徐福は長い間中国でも伝説上の人物でした。

しかし,1982年,江蘇省において徐福が住んでいたと伝わる徐阜村(徐福村)が存在することがわかり,実在した人物だとされています。そして,徐阜村には石碑が建てられました。驚くことに,その村には現在も徐福の子孫が住んでいます。代々,先祖の徐福について語り継がれてきたそうです。大切に保存されていた系図には徐福が不老不死の薬を求めて東方に行って帰ってこなかったことが書かれていました。

 徐福は始皇帝に,はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました(司馬遷の『史記』がもとになっている)。この願いが叶い,莫大な資金を費やして一度旅立ちますが,得るものがなくて帰国しました。何もなかったとは報告が出来ず,この時は「鯨に阻まれてたどり着けませんでした(台風を大鯨にたとえたのかもしれない)と始皇帝に報告しました。そこで始皇帝は大勢の技術者や若者を伴って再度船出することを許可しました。

 若い男女ら3000人を伴って大船団で再び旅立つことになりました。そして,何日もの航海の末にどこかの島に到達しました。実際,徐福がどこにたどり着いたかは不明ですが,「平原広沢の王となって中国には戻らなかった」と中国の歴史書に書かれています。この「平原広沢」は日本であるともいわれています。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住し,その子孫は「秦」(はた)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するのです。もともと徐福は不老不死の薬を持って帰国する気持ちなどなかったかもしれません。万里の長城の建設で多くの民を苦しめる始皇帝の政治に不満をいだき,東方の島,新たな地への脱出を考えていたかもしれません。徐福らの大船団での旅立ちは一種の民族大移動かもしれないのです。

 中国には,徐福=神武天皇とする説もあって興味深いものです。徐福は中国を出るとき,稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)も持って出たと言われます。一般的に稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが,実は徐福が伝えたのではないかとも思え,徐福が日本の国つくりに深く関わる人物にも見えてくるのです。

 日本各地に徐福伝説は存在します。実際はどこにたどり着き,どこに居住し,どこに行ったかはわかりません。もちろん,徐福という人物の存在を証明する物は何もありません。しかし,徐福の伝説地はあまりに多いのです。徐福という名は歴史の教科書にも登場しないので日本人にはなじみがありません。実在したかどうかもわからない人物を重要視しないのは当然かもしれない。今から2000年以上も前のことなのに,江戸時代にあったことかと思ってしまうような話として伝わっているものもあります。語り継がれる間に,背景となる時代が混乱してしまうのです。でも,それでも許せてしまうのは,歴史的事実よりも歴史ロマンとして大切にしたい気持ちもあるからかもしれません。徐福は確かにいたのです。それでいいのです。数多い伝説地の中で,佐賀県,鹿児島県,宮崎県,三重県熊野市,和歌山県新宮市,山梨県富士吉田市,京都府与謝郡,愛知県などがあります。( 奈良文化財研究所 飛鳥資料館倶楽部)
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と、いうことで、きょうはここまで
# by ogawakeiichi | 2012-01-14 06:24 | 情報とデザイン | Comments(0)
宇宙を叩く
2012年が幕をあけた。昨年の末、ことしのテーマは【忍】で、乱世をしのぐつもりだったのだが、ちょいとばかり思うところもあり、【放たれたやんちゃなジジイ】もいいなと思っているところだ。

今年はアセンションとかいう年で、マヤ暦では世界が消滅すると言う人もおり、恐怖ビジネスに携わる方々にとってはインチキになるのか本物になるのかの瀬戸際な年でもある。


と、そんなわけで、今年の一首

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【乱声のキワに蠢く玄の氣よ 火焔の響き陽気舞いたて】

世間はなにかと乱世の様相。歴史を紐解けば、このような事態の変わり目、相転移の触媒としての役割は九州が担ってきた。アジアに伝わる火焔太鼓を乱打ださせ、日本古層の執拗低低音に共振させ陽の気力を呼び覚ます役割を担う九州。いよいよ興の時!!

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※毎年の歌始めは、歌いはまだかという、九州某組の組長の脅しがあってこその一首。←なんのこっちゃ(笑 

ところで我が家は、まだ夜も明けきれぬ元旦早朝、一番弟子、三番弟子と師匠の私の男三人衆は、鹿児島・南洲寺にて参禅。矢野老師の新春読経ボーカリーゼーションにほれぼれしつつ、波乱万丈、なんでもど~んと来いと、臍下丹田をちょいとばかし練ってきた。

世界というもの、なんどきどんな現象が目の前にやってきても、しかと受け止める覚悟があれば、どーってことない。←ほんとかよ~

さてさて、年初めのブログはなんにしようかと相当迷ったのだが、アジアをまるごと俯瞰して図像させれればピカイチの、ぼくのもっとも尊敬するデザイナーである杉浦康平さんの著書、【宇宙を叩く】をブログ始めとすることにする。
↓  ↓

杉浦さんは【宇宙を叩く】のなかで、対をなして陰陽原理を解き明かす火焔太鼓を並べあい、それを対比することで、古代アジアの人々が楽器に託し聞きとろうとした天界の響きから、アジアや日本の深層を流れる執拗低音へアプローチした。


火焔太鼓は、右方と左方の一対の大太鼓。その意匠は、月と太陽、鳳凰と龍、二つ巴と三つ巴・・・。いくつも対原理が潜んでいる。

舞楽の上演とともに火焔太鼓が叩かれる。神に捧げ、祖霊供養を目的とするため、必ず神の眼を楽しませる舞いがつく。

火焔太鼓はこの舞いの律動を刻む打楽器として、ゆっくりとした、むしろ間のびするようなリズムで叩かれ、舞いは人のふるまいを超え、神への捧げものとなる。

対をなして聳え立つ火焔太鼓、そのデザインのなかで際立つものは、大きく燃え立つ【宝珠形の火焔】だ。その火焔のなかに目を凝らしてみると【龍と鳳凰】の姿がみえる。さらにその中心には【巴紋】。火焔太鼓を叩くことにより、その巴紋が太鼓の響きに加速して渦巻いていくように感じられるのである。

巴のかたちは、また発生時の胎児の姿でもある。古代中国や朝鮮や日本では、この形を「勾玉」として造形し、珍重している。生命力の根源をはらむただならぬ形。勾玉と巴紋は深く相似しあう興味深い形でもある。

人間の体内にも2つの渦が潜んでいる。一つは消化器系のはたらきを統御する口から胃や腸を経て肛門へいたる降下し凝縮するエネルギーの流れ、もうひとつは、身体全体の神経や思考のはたらきを統御する脊椎から脳髄へと上昇し拡散するエネルギーの流れだ。この太極的はふたつの渦が、頭(脳・神経系)と腹(内蔵・消化器系)を中心として人体に存在する。ふたつの渦の共振によって私たちのひとつの身体が形成されている。

杉浦さんは、また火焔太鼓の火焔の中に両界曼荼羅との結びつきにも注目した。曼荼羅(マンダラ)とは、サンスクリット語で「本質(悟りの本質)をうるもの」、あるいは「輪円具足(まろやかに充実した境地)」という意味をもちその世界を極彩色であらわした細密画である。ぼくがインドを彷徨していたとき、たずねた寺院の壁画や、タンカとして書かれた曼荼羅に良く出会った。あるときはネパールのカトマンズでなけなしの金で買い込んだ、けっこう高価な曼荼羅を、タイ・バンコックの飛行場から宿につくあいだのタクシーに忘れ、呆然としたした思い出もある。ちょっとはなしがそれてしまったが、両界曼荼羅とは胎蔵界と金剛界をいう。胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅は、中国で9世紀に生み出された重要なふたつの曼荼羅だ。


インド源流とした金剛界曼荼羅と、胎蔵界曼荼羅のふたつの流れは、中国の長安にいた恵果のとろこで重なり、それを恵果一番弟子といわれた弘法大師・空海が中国から日本へと請来する。

その後、空海により胎蔵界と金剛界のふたつをあわせて【両界曼荼羅】とよぶようになった。
胎蔵界と金剛界。ふたつの曼荼羅は、人間の左身(左脳)と右身(右脳)のように対をなし、同時にまた、左身と右身を溶け合わせて一身となる統合的な宇宙原理を伝えている。

ふたつでありながらひとつになる。ふたつにして一である。これは「二而不二」と呼ばれ、密教の本質を示す深い教えだと思われている。

根本原理は「阿ー吽」や、「陰ー陽」の働きに通じ合う。さらにふたつの太鼓で一組となる。火焔太鼓の意匠の特徴とも重なり合うものである。

私淑する杉浦康平の【宇宙を叩く】は古代アジアの人々が楽器に託し聴きとろうとした天界の響きの意図。左右ふたつの火焔太鼓の細部が、両界曼荼羅との結びつきが読み取れる一冊だ。



# by ogawakeiichi | 2012-01-10 16:48 | アジア史&思想 | Comments(0)
声字実相義:解読ノート
世の中に本は幾万冊あるのだろう。しかし、その大半が読みたくても読めないもばかり。それをなんとかしょうとする“方法へのチャレンジ”の記録。

まず、俎上にあげたのは【声字実相義】。どうせなら、まったく意味のわからないこの本は好材料だ。くわえて“男だったら一度は通過したい空海”。←司馬遼太郎のことば。

読み解きの導師は、高橋秀元氏。杉浦康平とならぶ図像学の大家。氏のナビゲートで未知の世界、見えないもの、読めないもに食らいついていく。その過程をメモ書き程度に記録していく。たぶん半年かな・・





●未知には3種類の未知がある。まずはだれもがしっているが自分が知らないことだ。実はこの解決はごく簡単で、たとえば辞書を引くなど、その知らないことを注釈してある辞書や情報を探しあてればそれて良い。

2番目は、世界像の違いからくる未知。この場合書物を読んでも世界像を把握しようと思わない限りそれを知ることはできない。たとえば、中国や北朝鮮に対しての世界像の違い。あなたの論理はこうですけど、私たちの論理ではこのあたりにありますと、どこかでマッチングさせる必要がある。

時代の違いにもある。たとえば平安時代と現代とでは分類体系が異なる、さすれば我々がワープしてその世界に入り込み、現代社会とマッチングさせてあげる必要があるのだ。←このあたりコミュニケーション論になってくるので、また後日。空海のコミュニケーションって、こりゃあ、身体性の極だな。。

3番目には、根本的不明。明治期、西周が英文を漢字にしたときなにかが混ざった。翻訳した瞬間に世界像の相違が立ち上げってくる。INFORMとは、なにかが現れようとしている瞬間である。INFOMATIONとは、ある状態で誰かに伝えること。

●まず、不明な言葉がでてきたら、どこかに置いておこう。未知なものはすこしずつ解いていこう。未知なるものをなんとかしよう。わからないから面白い。←そうそう。わかったものなんか、ど^でもいいや。。

読む前に既知化しない。予習は誰かが知っていたことを、オーム返しのようにするだけだ。復習は自分がわからなかった箇所を3つの未知のどれにあたるかを突き止めることである。

誤読の勧め。自分が調子のいい状態にもっていくため誤読なんてきにするな。道元の正法眼蔵なんで、誤訳ばかり。それでもそちらの方がすばらしい場合だってある。音読することで生まれる意識がある。そこに立ち上がるイメージが大切。←これってデザイン思考とも共通するよな。。

音読をしているときに調子がよければよい。黙読法は理解とともに進むが、音読は理解なくしてイメージを引き出して読むことができる方法なのだ。

さてさていよいよ本題の【声字実相義】を読みといていく。



●声字実相義は【叙意】にはじまる。【叙意】とはさわりの部分のことで、つぎの【釈名体義】とは先人の言説をつかって本質を追求すること。

●我々日本人にとってアジア(中国・韓国・日本)を見る方法を考えた時、忘れてはならないことがある。それは【経】という見立て。

●アジアで書かれた本は【経】【論】【義】【疏】の姿をとる。本の内容の全体を【経】といい、それはイデオロギー、フィロソフィーであり人々の規範となった。

●その内容のアプローチのしかたに【論】【義】【疏】がある。【論】とは筋道をたてて解釈すること。さらに論を比較して考え意見を検討して解を導くことを【義】といいい。推測して注釈することを【疏】という。あわせて【経】【論】【義】【疏】

●このスタイルをとった最初の本が、『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)。

●『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)とは、聖徳太子によって著されたとされる『法華義疏』(伝 推古天皇23年(615年))・『勝鬘経義疏』(伝 推古天皇19年(611年))・『維摩経義疏』(伝 推古天皇21年(613年))の総称。

●ところで現実とはなんだろう。空海に言わせると、それは【見える。聞こえる。触れる】ことである。

●ちょっと思考実験をやってみよう。たとえば、現実界において目の前に鉛筆があるとする。その鉛筆から色を取り去り、匂いを取り去り、質量を取り去っていくと何が残るか?そこから、質量、色、形などを引いていくとなにも残らない。それが空である。この現実から空へのアプローチを【顕教】という。

●われわれの眼にみえる世界に対し、見えない多くの世界がある。たとえば紫外線や赤外線。その見えない実相から、現実へアプローチしていくのが【密教】。そこに神を介在させると神秘主義となる。

●神秘主義とは、絶対者(神、最高実在、宇宙の究極的根拠などとされる存在)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場のこと。

●声(音声)である響き。字(模様)である光。声や字が発せられると最後はどうなっていくのだろう。空海の密教的立場でいえば、声は永遠に響き合う。これを声常住という。マン(思考)トラ(器)ともいう。インド哲学のヴェーダでは“声は常住なれ”と呼んだ・顕教的立場でいえば、声すなわち言語は、知らせる機能だとした。


と、まあ、そんなとこで・・つづく。
# by ogawakeiichi | 2011-12-22 12:13 | アジア史&思想 | Comments(0)
隼人の古代史
東京に住む中高時代剣道部だった友人が鹿児島へ立ちより、いま隼人を追いかけていると話していた。

鹿児島出身なら一度は追いかけねばならないテーマなのかもしれない。

ところで、よくわからないまま使っている言葉に、鹿児島人の代名詞のようになった【熊襲】と【隼人】ある。

はたして【熊襲】と【隼人】とはなんであろう。

古代南九州には熊襲、あるいは隼人と呼ばれる人々が暮らしていた。彼らは【古事記】や【日本書紀】にも登場し、古くから知られていたが、「熊襲」と「隼人」の区別や、当時ヤマトと呼ばれた中央政権とどのような関係だったのか、記述しておきたい。

さて、さて、熊襲と隼人の学説的な違いの説明なのだが、いまだこれといった説はない。

ただ、記紀には隼人より先に熊襲が登場するため、時代の前後からいえばどうも、熊襲が先で、遅れて隼人という言葉が使いだされた。

先日、訪れた隼人塚史跡館の展示室では、熊襲を球磨と曽於を合わせた地域とし、隼人を薩摩と宮崎の日向をあわせた日向が隼人の住む地域としていた。

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肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国贈於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族であり、ヤマト王権への臣従後は、「隼人」として仕えたと言うのが現在の通説である(津田左右)。
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なお、隼人の古代史を書いた隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。

津田左右説と中村説の違いは、熊襲が分布していた地域について、熊本県の球磨を含めないというとことであろう。

それではつぎに、隼人だが、ところで隼人という呼称はどこからきたのであろうか。

これには地名からとったとする地名説と、隼の名前からくる性行説がある。

この議論は江戸時代の本居宣長から盛んになり宣長は、隼人の名義をその敏捷性にあるとした。(性行説)しかし歴史学者、喜田貞吉は、古代の異族を呼ぶのにその挙動をもって名とする例はないとし隼人は【はや】の人であるとした。(地名説)


ハヤトが史上にその具体的な姿をあらわすのは、天武11年日本書紀に大隅隼人と阿多隼人と、朝廷に相撲をとるとの記述からだ。

つまり隼人は薩摩、大隅以外にも、今の奈良県にも住んでいた。これを畿内ハヤトとよび、奈良県の五條市阿田。京都府も京田辺などにもその痕跡がある。

この理由は大隅の隼人族の大隅直一族が、5世紀からヤマト朝廷と天皇の后となるなどの親和策をとり近習隼人といわれ身辺の諸用をつとめたからだ。

なかでも、忠義を尽くした例として、5世紀末には雄略天皇を陵墓に葬るさい、7日間食事もとらず泣き叫び、死んでしまった話しがある。

この哀号に「オラブ」とつけた。

いまも南九州では、泣き叫ぶことを「オラブ」というのはそのためなのだ。









# by ogawakeiichi | 2011-12-06 14:32 | 日本史&思想 | Comments(0)
弥勒菩薩
はじめて韓国・ソウルを訪れたとき、私の眼に焼き付いたものがあった。  

国立中央博物館にある弥勒菩薩像だ。

特別展示室には、淡い光の中、片足を曲げてもう一方の足の上にのせた半跏の姿勢で、手の指を頬に当てて考えを巡らす思惟のポーズをとった半跏思惟(はんかしい)と呼ばれる姿があった。

選びぬかれた気品漂うこの大韓民国・国宝を、美大生とおぼしき二人の女性が、とり憑かれたかのように、じっと見つめていた。   

静粛が漂う薄らあかりのなか「アルカイク・スマイル」とよばれている表情の美に魅了されていたのかもしれない。

ひるがえって、京都にある最古の寺院、広隆寺には、ソウルにある弥勒菩薩とほとんどおなじ姿をした日本の国宝第一号でもある弥勒菩薩像がある。

奈良時代、朝鮮半島から海峡を越えてきた仏師が日本でつくったものなのか、もしくは、韓国から持ち込まれたものなのかはわからない。

弥勒菩薩は、仏陀入滅後、56億7千万年後、人々を救うため末法の世に降りてくると言われている。

一方、朝鮮半島にあった新羅の、イケメン軍団「花郎(ファラン)」は、弥勒を信仰することで、弥勒の住む世界へ往生できると信じていた。

弥勒菩薩は様々に表情を変え、沖縄ではミルク神とよばれ、中国では布袋様にもなった。

その起源をたどれば、古代インドの「マイトレーヤ」。そのまた先には、中央アジアにはじまった「ミトラ神」だという説までたどり着く。

ミトラ、マイトレーヤ、ミロク。なんとなく発音が似ている。

アジアの地図を九〇度時計回りにすると、日本は一番下に位置するパチンコ台の受け皿のようだ。    

古来よりユーラシア大陸の文物はシルクロードから、東シナ海を渡って、私たちの住む日本列島に流れ込んだ。

在来の神様と、海を越えてやってきた神様が融合してきた。

身近な例では、薩摩半島の南西に位置する野間岳の山頂には、かって中国生まれの「娘媽(ろうま)神」よばれる航海の神様と、在来の日本の神様が祀られていた。

大陸を出た船は、まず野間岳を目指してきたという。きっと、野間岳のノマは「娘媽(ろうま)」からきたのかも知れない。

日本は明治維新以降、西洋文明を享受して物質文明を謳歌してきた。

しかしそれは3.11の大震災以来、どうも、行き詰まりを見せている。
現在、日本もアジアも世界までもが歴史的な転換点にさしかかっている。

悠久の歴史という時間のなかで醸造されてきた日本の感受性を取り戻すべく、私たちはアジアの

深層を流れてきた何かから学び直してもいいのかも知れない。

弥勒菩薩や娘媽などの神様が共有した東シナ海の道、千年を越えて携えてきた時の流れに、この国の未来へのヒントかあるのではないかと、そんな気がする。

野間岳の山頂にのぼってみると、神様たちの面影はなかったが、東シナ海を航行する大小多くの船が眼下にみえた。

# by ogawakeiichi | 2011-12-03 21:49 | 南日本新聞コラム | Comments(0)
メモ:新しい日本の創造1
メモ:新しい日本の創造M‐1

○日本が失った記憶、文化、スピリッツはなかなか再生できない。

○しかし、本来日本はそういうものを万葉の時代から歌ってきた。

○英語でぴったりとした単語はないのだが、しいていえばメランコリーか?

○たとえば、それは「うつつ」だ。「うつつ」は「うつろう」に変化する。そのおおもとには「うつ」(空っぽ)がある。

○日本は一つではない、一途で多様な日本なのだ。

○面影日本。ルーツ オブ ジャパンというものがあり、ジャパンマザーという埋めこまれたものその中に今の事態がのっかっている。

○ジョン・ダワーは「私たちが語れねばならないのは日本文化たちである。日本文化たち」と語り彼は、JAPANSという複数形で日本を表現した。

○わたしたちは、本来たくさんの「日本たち」を語らねばならないのだ。

○たとえば天皇と将軍。地方と中央。これらはともに自立していた。

○マネージメントも大切だけどイメージメントも大切だ。そのふたつを一緒にやらねばならない

○マトリックス オブ ジャパン。ジャパン マザーをつくる。それならどんなキーワードが出てきても問題は解決する。

○西洋世界はそのことをやってきた。いまグローバルスタンダードといわれているものはベネチア、ジェノバが世界というものを知っていった大航海時代。それが複式簿記を産んで貸方、借方が生まれ、一度アントワープへ移り、東インド会社をつくり、アムステルダムからロンドンへうつり、そこではじめてコンメンダ、コンパンダといわれるものがカンパニーとなり現在の金融を中心とした世界のモデルができていった。

○たくさんのコーヒーハウスができて、その中からロイドができてロイズコーヒーをつくって保険というものもつくり、たとえば、エクイティーという言葉が全部の歴史を呑み込んだ

○わたしたちは、現在それらを英語で、あるいは翻訳して使っているに過ぎない。

○日本人は日本文化の中に潜んだものを世界に発信する努力がたりない。

○日本は特殊だというものの、堺や福原や太宰府やヤマトや藤原4代がつくりあげたあるコンセプトを世界へ広げる努力をしていない。

○日本がやってきた「マトリックス オブ ジャパン」を、日本知、アジア知、世界知というコードをつかって組み立てることが必要だ。

○わたしたちの奥にあるものを取り出すと別のものと出会う。たとえば携帯ストラップというものを取り出すと、かつての「ねつけ」と出会いレゾナントがはじまる。

○たとえばミノリとイノリもそうである。ふたつはペアであるべきた。

○今日のTPPの問題はミノリからイノリが欠けている。本来、お米はミノリとイノリが一緒だったはずなのに・・・。
# by ogawakeiichi | 2011-11-10 12:45 | 只記録 | Comments(0)
「黄興」
中国の都市には必ずといっていいほど、中心街には「中山路」という大通りがある。この名称は「中国革命の父」と呼ばれる孫文の別名、孫中山に由来する。彼は20世紀初頭、それまで中国を支配していた清王朝の衰退を憂い、辛亥革命を起こし、新たな国家の建設に立ち上がった人物だ。 
                                        
中国では孫文というより孫中山という呼び名のほうが一般的だ。日本に亡命していた時期に、「中山」という日本の苗字が気に入り自分のことを孫中山と名乗ったらしい。孫文は多くの人を惹きつける魅力のある人物だった。革命や亡命の資金は熊本の士族である宮崎滔天、長崎の梅屋庄吉(日活の創始者)など九州にゆかりのある人々が援助していた。

今年はその孫文が辛亥革命を成し遂げて100周年にあたる。ジャッキー・チェンが孫文の同志「黄興」を演じる映画「1911」の映画も公開された。余談だが、「黄興」が孫文の片腕となって辛亥革命を成し遂げたのも、宮崎滔天がふたりの仲をとりもったからだ。歴史に「もしもはないが、九州人によるふたりの引き合わせがなければ辛亥革命は成功しなかったかもしれない。

先日開かれた「日中友好を語る鹿児島シンポジウム」のパネルディスカッションでは、作家の石川好氏の巧みな紡ぎで、県知事、鹿児島市長、JR九州社長、長沙副市長、北京・精華大学の先生らにより「黄興」のこと、東シナ海を巡る未来のことなどが語られた。

実は「黄興」は、ここ鹿児島と深い縁があった。「黄興」は鹿児島市の姉妹都市である湖南省長沙に生まれ、亡命期も含め5年半を日本で過ごす。一九〇九年には盟友である宮崎滔天とともに、鹿児島を訪れ、南洲墓地を参詣している。彼は「中国の西郷隆盛」を自認するほど、熱烈な西郷のファンだった。

鹿児島市日中友好協会の海江田順三郎は「鹿児島市と長沙市が友好都市を締結した後、たまたま黄興もまた、長沙の出身だということがわかった。きっと見えない縁で結ばれていたのでしょう」と話していた。シンポジウムのあと、眼前に桜島がどんと腰をおろす風光明媚な南洲墓地を訪ねてみた。

鳥居をくぐると、右手に鹿児島市と湖南省長沙市の友好都市締結25周年を記念して碑が建ち、黄興が西郷の墓前で詠んだ詩が陶板に焼かれていた。

東シナ海をとりまく交通のインフラの発展は、めざましい。鹿児島―上海の航空便は週4便。九州新幹線全線開通。福岡と釜山の間には高速艇が行き交い、釜山からソウルへは高速列車が2時間半で結ぶ。インフラも整備されたいま、明治の末期アジアを舞台に活躍した先人たちに学び、東シナ海を巡る沿海地域と歩調をあわせ、その経験を中央へ繋げていく時代が来たのかもしれない。朝のワイドショーでは相変わらすTPP参加の是非で揺れていた。

# by ogawakeiichi | 2011-11-10 12:39 | 南日本新聞コラム | Comments(0)
空の思想史3
・・・・前回からつづく

ヒンドゥ哲学から仏教が出てきて発展していったインド思想の前半は、龍樹(ナーガルジュナ)に始まる空の思想で、それを「中観」という。

龍樹(ナーガルジュナ)までは【空】と【縁起】は別々の流れとして伝えられてきた。

龍樹(ナーガルジュナ)の中観思想は、「空」と「縁起」の思想を同時化して結びつけた。これが独創的だった。
 
「空」は、サンスクリット語の形容詞「シューニヤ」と抽象名詞「シューニヤター」の合成的な訳語である。漢訳では「空性」(くうしょう)と訳されることも多い。

シューニヤとは「あるもの(x)において、あるもの(y)が存在しない」を意味する。
それゆえ シューニヤという言葉は一般に「yはxに関して空である」とか「yにxが欠けている」「xがyにない」というふうに使われる。つまり「空」とは、いったんは「xがyにない」ということになる。

一方、「縁起」とは、「xはyに依っている」と言う意味をあらわしている。「xはyの原因にあたる」という意味をいう。

では【空】と【縁起】はどのようにxとyの関係をあらわすことになるのだろうか。【縁起】しあっているxとyが、互いに【空】ているとはどういうことか。


龍樹(ナーガルジュナ)の『中論』ではざっと結論をいうのなら、龍樹(ナーガルジュナ)はxとyの空の在り方も、xとyの縁起の有り方も、実は言葉の過信を捨ててかからないかぎりは議論できないと言っているのだ。←これって、どういうこっちゃ??。

つまり、【空】を感じるにはその【空】をめぐる言葉を捨てながら進むしかなく、そのときなお、仮の言葉の意味を捨てながらも辛うじて残響しあう互いの【縁起】だけに注目すれば、本来の「空」を感じる境地になるだろうと説いたのだ。

これは、仏教思想において初めて言語の虚飾を払った哲学として特筆される試みだった。

龍樹(ナーガルジュナ)の中観とは「空の思想」であって、「言葉を空じる試み」であったわけである。


おわり

参考:千夜千冊
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0846.html
# by ogawakeiichi | 2011-11-07 14:29 | アジア史&思想 | Comments(0)
空の思想史2
・・・・昨日からのづづき↴

例えば、「この本は重要だ」という命題は「この本には重要が載っている(重要性がある)」と解釈されるが、この場合、本体は本であり、重要ということは本の属性と考える。

ある基体(y)にあるもの(x)が存すると考えられる場合、xをダルマとよび、その基体yをダルミンとよぶ。

それでは、ある本があったと仮定して思考実験してみよう!。ほら、あなたの前のその本を材料にして・・・。そこに重要性や、色、大きさ、カタチ、匂い、重さといっ属性のひとつひとつを取り除くことができたと仮定してみよう。色を取って、匂いをとって、重さをとっていき、すべての属性を取り除くことができたと仮定してみると、最後になにがのこるか?

本の属性とその基体との間に明確な区別があるのかどうか、

あるいは明確な区別はないのか?。

じゃじゃん・・

無色透明ではあるが、基体とよぶべき何ものかが存在するというのがバラモン正統派でインド型の実在論と呼ばれ、

なにも残らないとするのが仏教的で、インド型の唯名論と呼ばれる。

(※バラモン正統派の基体が残るとするこの基体のことを世界の根本であるブラフマンと呼んだ。ヒンズー哲学は属性が存在する基体、すなわちブラフマンは存在するとした。このブラフマンは決してキリスト教的な創造主ではなく、キリスト教が神そのものを世界そのもにはなることができないのに対し、ブラフマンはそこから世界が展開し、しばしばそれが世界そのものになるのである。)

龍樹はまた、この世界のすべての存在、現象は原因(因)と条件(縁)によって起こりその現象はそのまま、他の現象の原因とか条件になっているという。

これもまた、そんなバカなである。

空の思想では、存在などないと言ったのに、存在現象は、縁起によって起こされるとはどういうことなのか?


龍樹は、存在現象にそれそれ独自の固有な本性があるわけではない。すべては縁起によって起こされ、自らは無我であり存在現象自体が空性であると説いたのだ。



つづく・・
# by ogawakeiichi | 2011-10-31 11:18 | アジア史&思想 | Comments(0)
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