「南からみる中世の世界」
日時:平成26年9月27日(土曜日)~11月3日(月曜日)
会場:黎明館2階第2特別展示室
南九州から台湾に至る南北1200kmの海域には,先島諸島,沖縄諸島,奄美諸島,トカラ列島,薩南諸島からなる琉球列島が連なる。中世日本の支配領域の周縁にあって,謎に包まれた琉球列島の歴史は,喜界(きかい)町城久(ぐすく)遺跡群などの発見を契機として脚光をあびてきた。
中国の宋(北宋980~1127,南宋1127~1279)の時代,活発化する東シナ海交易のうねりは,11・12世紀,博多を拠点とする日宋貿易を興隆させ,列島内に広範な交易のネットワークが広がっだ。その波は琉球列島の中・南部にも及び,中国産の白磁碗,徳之島産のカムィヤキ,西北九州産の滑石(かっせき)製石鍋(いしなべ)の流通にみる広域の流通圏と文化的なつながりが生まれていく。グスクを拠点に地域の有力者(按司(あじ))が割拠するグスク時代が始まり,やがて三山(北山,中山,南山)の抗争を経て琉球王国が建国される。
序章
南九州と南島(なんとう)
南九州と島嶼(とうしょ)世界との交流は,古くは奄美や沖縄で発見される南九州の縄文土器,弥生~古墳時代の遺跡から出土するゴホウラやイモガイなど南海産の貝製品に見ることができ。平安時代にはヤコウ貝,檳榔(びんろう),赤木(あかぎ)など南島産物が,南九州の支配層から都の有力貴族への贈り物とされるなど,南九州は,琉球列島と古代日本を繋ぐ「ひと・もの・文化」の交流の窓口となっていた。
第一章
東アジア世界と日宋貿易
古代以来,我が国の対外交渉の中心であった大宰府鴻臚館(こうろかん)は11世紀前半に終焉を向かえる。代わって宋から来航する商人たちは博多に住居を構え貿易を営み,ここに「国際交易都市」博多が誕生。博多遺跡群から出土する貿易陶磁は,他を凌駕(りょうが)する圧倒的な物量を誇り,宋商の日用品,容器として持ち込まれた陶器の甕(かめ)や壺,目印に墨書(ぼくしょ)が記された陶磁器など,港湾都市ならではの多彩な資料が目を見張らせます。博多遺跡群を中心に,九州西岸の中世遺跡,交易船の積荷とされる奄美大島宇検(うけん)村の倉木崎(くらきざき)海底遺跡の貿易陶磁などが日宋貿易の痕跡だ。
第二章
中世の都市と町
院宮王臣家(いんぐうおうしんけ。皇族や五位以上の貴族)や有力寺社が集まる京は,海を渡って招来される「唐物」が集まる最大の消費地だ。治承・寿永の戦乱(1180~1185)を経て,源頼朝が幕府を開いた鎌倉は新たな政治都市に生まれ変わり,宋・元代の白磁や青磁の優品が集まる。
歴史上の出来事に彩られた京都や鎌倉出土の貿易陶磁,瀬戸内海に注ぐ芦田川の河床から甦った中世の町草戸千軒町(くさどせんげんちょう)遺跡の人々の暮らしを映しだす出土品も豊富である。
第三章
カムィヤキ・石鍋・貿易陶磁~平安時代後期の奄美・沖縄と南九州
『新猿楽記』に登場する八郎真人(はちろうのまひと)は,「東は俘囚(ふしゅう)の地(蝦夷=北海道)に至り,西は貴賀の島(奄美諸島)に渡る。交易の物,売買の種,数をあげるべからず。」とあるように列島を勇躍した中世の商人です。11・12世紀,喜界島の城久遺跡群はその盛期を迎え,徳之島伊仙町で生産されたカムィヤキは先島諸島にまで流通し。南九州では島津荘や大隅正八幡宮領の荘園が拡大し,阿多郡司として勢威をふるった阿多忠景は,永暦元(1160)年ごろ追討を受け「貴海島」(『吾妻鏡』)に逃れている。南さつま市の持躰松(もったいまつ)・渡畑(わたりばた)・芝原遺跡,大隅正八幡宮社家跡などが注目される遺跡だ。
第四章
鎌倉時代の交易・支配と蒙古襲来
鎌倉時代,島津氏,渋谷氏,二階堂氏など諸国に所領を有する有力な関東御家人が守護・地頭として南九州の歴史に登場。平氏政権の積極的な対外政策は,対外交易の構図に変化をもたらし,蒙古襲来の衝撃にも関わらず,宋末から元代の交流は益々盛んになる。執権として代々幕府の実権を掌握した北条氏一門は,日元の貿易にも深く関わり,千竃(ちかま)氏を通じて南九州・琉球列島の交易支配にも関わったとされます。鎌倉時代の交易・交流に関わる遺跡や文書のほか,弘安の役で沈没した元船の発見で知られる鷹島(たかしま)海底遺跡などがある。
第五章
南からの風~グスク時代の奄美・沖縄
南北朝の争乱期,南九州各地に築かれた中世山城からは明代の中国産陶磁器の他,タイ産やベトナム産の陶磁器も出土し,戦乱の時代,海外との交易を求めた領主層の姿があった。14世紀には今帰仁(なきじん)城や勝連(かつれん)城に石積みのグスクが築かれ,沖縄を起点とする新たな対外交易が発展します。1429年には中山王尚巴志(しょうはし)によって三山が統一され,琉球王朝は繁栄の時を迎えた。
事務所の引っ越しを終えやっと落ち着いた頃、大嵩さんは「うんまかコーヒーを飲ましっくいやはんどかい」とバリバリの鹿児島弁で入って来られました。コーヒーを飲みながら「オーストラリアへ行こや!」といきなりの言葉。30年前の出来事です。
それまで大嵩さんのことは市制100周年事業・博覧会サザンピアや水族館、いまでこそブランドになっている焼酎などを手掛ける“手も口も動かすデザイナー兼ディレクター”という雲の上の存在でした。
その後もズバズバと不意を突く「大嵩節」に翻弄されながらも思わず「はい」と返事をすることしばしばで、口の悪い友人は「大嵩さんのパブロフ犬」などと比喩します。
でもいいんです最後の徒弟と思っています。
7月のある日「錦江湾で船釣りをしながらいろいろ語ろかい」と電話をもらいましたがそのままです。
17日夕方病室で“目で会話”しましたがその日の夜“船釣りの約束”を反故にされ逝ってしまわれました。
一昨日武蔵美の展覧会で最後の作品をみせてもらいました。「人生もデザインじゃっど」が最近の口癖でしたが最後の作品が“曼荼羅”になろうとは。
いま大嵩さんの残された2冊の本「エッセイ画集・魚眼恋図」と「大嵩文雄のデザイン散歩」を読み返しています。
ごめんなさい、はじめてちゃんと読みました。
中国桂林を流れる漓江での釣りや、わたしのことを“友人”と書いてあるページを見つけ只々絶句です。大嵩さんありがとうございました。
・・・・合掌
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