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彩遊記

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南からみる中世の世界

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「南からみる中世の世界」

日時:平成26年9月27日(土曜日)~11月3日(月曜日)

会場:黎明館2階第2特別展示室



南九州から台湾に至る南北1200kmの海域には,先島諸島,沖縄諸島,奄美諸島,トカラ列島,薩南諸島からなる琉球列島が連なる。中世日本の支配領域の周縁にあって,謎に包まれた琉球列島の歴史は,喜界(きかい)町城久(ぐすく)遺跡群などの発見を契機として脚光をあびてきた。


中国の宋(北宋980~1127,南宋1127~1279)の時代,活発化する東シナ海交易のうねりは,11・12世紀,博多を拠点とする日宋貿易を興隆させ,列島内に広範な交易のネットワークが広がっだ。その波は琉球列島の中・南部にも及び,中国産の白磁碗,徳之島産のカムィヤキ,西北九州産の滑石(かっせき)製石鍋(いしなべ)の流通にみる広域の流通圏と文化的なつながりが生まれていく。グスクを拠点に地域の有力者(按司(あじ))が割拠するグスク時代が始まり,やがて三山(北山,中山,南山)の抗争を経て琉球王国が建国される。


序章
南九州と南島(なんとう)

南九州と島嶼(とうしょ)世界との交流は,古くは奄美や沖縄で発見される南九州の縄文土器,弥生~古墳時代の遺跡から出土するゴホウラやイモガイなど南海産の貝製品に見ることができ。平安時代にはヤコウ貝,檳榔(びんろう),赤木(あかぎ)など南島産物が,南九州の支配層から都の有力貴族への贈り物とされるなど,南九州は,琉球列島と古代日本を繋ぐ「ひと・もの・文化」の交流の窓口となっていた。


第一章
東アジア世界と日宋貿易

古代以来,我が国の対外交渉の中心であった大宰府鴻臚館(こうろかん)は11世紀前半に終焉を向かえる。代わって宋から来航する商人たちは博多に住居を構え貿易を営み,ここに「国際交易都市」博多が誕生。博多遺跡群から出土する貿易陶磁は,他を凌駕(りょうが)する圧倒的な物量を誇り,宋商の日用品,容器として持ち込まれた陶器の甕(かめ)や壺,目印に墨書(ぼくしょ)が記された陶磁器など,港湾都市ならではの多彩な資料が目を見張らせます。博多遺跡群を中心に,九州西岸の中世遺跡,交易船の積荷とされる奄美大島宇検(うけん)村の倉木崎(くらきざき)海底遺跡の貿易陶磁などが日宋貿易の痕跡だ。


第二章
中世の都市と町

院宮王臣家(いんぐうおうしんけ。皇族や五位以上の貴族)や有力寺社が集まる京は,海を渡って招来される「唐物」が集まる最大の消費地だ。治承・寿永の戦乱(1180~1185)を経て,源頼朝が幕府を開いた鎌倉は新たな政治都市に生まれ変わり,宋・元代の白磁や青磁の優品が集まる。

歴史上の出来事に彩られた京都や鎌倉出土の貿易陶磁,瀬戸内海に注ぐ芦田川の河床から甦った中世の町草戸千軒町(くさどせんげんちょう)遺跡の人々の暮らしを映しだす出土品も豊富である。


第三章
カムィヤキ・石鍋・貿易陶磁~平安時代後期の奄美・沖縄と南九州

『新猿楽記』に登場する八郎真人(はちろうのまひと)は,「東は俘囚(ふしゅう)の地(蝦夷=北海道)に至り,西は貴賀の島(奄美諸島)に渡る。交易の物,売買の種,数をあげるべからず。」とあるように列島を勇躍した中世の商人です。11・12世紀,喜界島の城久遺跡群はその盛期を迎え,徳之島伊仙町で生産されたカムィヤキは先島諸島にまで流通し。南九州では島津荘や大隅正八幡宮領の荘園が拡大し,阿多郡司として勢威をふるった阿多忠景は,永暦元(1160)年ごろ追討を受け「貴海島」(『吾妻鏡』)に逃れている。南さつま市の持躰松(もったいまつ)・渡畑(わたりばた)・芝原遺跡,大隅正八幡宮社家跡などが注目される遺跡だ。

第四章
鎌倉時代の交易・支配と蒙古襲来

鎌倉時代,島津氏,渋谷氏,二階堂氏など諸国に所領を有する有力な関東御家人が守護・地頭として南九州の歴史に登場。平氏政権の積極的な対外政策は,対外交易の構図に変化をもたらし,蒙古襲来の衝撃にも関わらず,宋末から元代の交流は益々盛んになる。執権として代々幕府の実権を掌握した北条氏一門は,日元の貿易にも深く関わり,千竃(ちかま)氏を通じて南九州・琉球列島の交易支配にも関わったとされます。鎌倉時代の交易・交流に関わる遺跡や文書のほか,弘安の役で沈没した元船の発見で知られる鷹島(たかしま)海底遺跡などがある。

第五章
南からの風~グスク時代の奄美・沖縄

南北朝の争乱期,南九州各地に築かれた中世山城からは明代の中国産陶磁器の他,タイ産やベトナム産の陶磁器も出土し,戦乱の時代,海外との交易を求めた領主層の姿があった。14世紀には今帰仁(なきじん)城や勝連(かつれん)城に石積みのグスクが築かれ,沖縄を起点とする新たな対外交易が発展します。1429年には中山王尚巴志(しょうはし)によって三山が統一され,琉球王朝は繁栄の時を迎えた。



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# by ogawakeiichi | 2014-11-13 17:11 | 鹿児島情報史

デザイン散歩:大嵩文雄氏への追悼文

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◆初七日に寄せて

事務所の引っ越しを終えやっと落ち着いた頃、大嵩さんは「うんまかコーヒーを飲ましっくいやはんどかい」とバリバリの鹿児島弁で入って来られました。コーヒーを飲みながら「オーストラリアへ行こや!」といきなりの言葉。30年前の出来事です。


それまで大嵩さんのことは市制100周年事業・博覧会サザンピアや水族館、いまでこそブランドになっている焼酎などを手掛ける“手も口も動かすデザイナー兼ディレクター”という雲の上の存在でした。


その後もズバズバと不意を突く「大嵩節」に翻弄されながらも思わず「はい」と返事をすることしばしばで、口の悪い友人は「大嵩さんのパブロフ犬」などと比喩します。


でもいいんです最後の徒弟と思っています。


7月のある日「錦江湾で船釣りをしながらいろいろ語ろかい」と電話をもらいましたがそのままです。


17日夕方病室で“目で会話”しましたがその日の夜“船釣りの約束”を反故にされ逝ってしまわれました。


一昨日武蔵美の展覧会で最後の作品をみせてもらいました。「人生もデザインじゃっど」が最近の口癖でしたが最後の作品が“曼荼羅”になろうとは。


いま大嵩さんの残された2冊の本「エッセイ画集・魚眼恋図」と「大嵩文雄のデザイン散歩」を読み返しています。


ごめんなさい、はじめてちゃんと読みました。


中国桂林を流れる漓江での釣りや、わたしのことを“友人”と書いてあるページを見つけ只々絶句です。大嵩さんありがとうございました。
・・・・合掌


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# by ogawakeiichi | 2014-09-26 06:58

自由について

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先日ある寄り合いの席で、簡単な自己プロフィールを表沙汰することになる。

経済的にもトレーニングにも必要な浪費と時間がかかるトライアスロン、順調だったデザイン事務所を閉鎖しての中国での教員生活、デザインとアート、文筆活動など多分野なわたしの“自由”に興味をもったのか、“自由”ってなんだろうという問いが立った。

“我侭で自由に見える生活も「捨てるもの」が多いですね。“と答えておいた。

英語で言う自由には「何かへの自由を表すfreedom」 と、「何かから開放されるliberation」がある。前者が無料とかバリアフリーなどの意味に使われるのに対し、後者は獲得していく自由を意味する。たとえば信仰の自由や、表現の自由、就職の自由など。

また「何かに向かう自由」【to】と「何かからの自由」【from】がある、何かに付け加えながら進む自由と、すでにある何かの中身を変えていく自由がある。

中世の日本での自由は、近代における意味とはことなり、自由狼藉という意味である。狼藉とは夜郎自大など、まるで無頼のように思われているが、どちらかというと既製の価値観を倒すために自らを他者とともにパティキュラライズした人のことを自由人、自由とよんだ。網野善彦「無縁・楽・公家」あたりを読むと、日本本来の意味がわかる。

しかし、自由を英訳したのはだれだろう、西周あたりかな。。。あとで調べてみよう。





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# by ogawakeiichi | 2014-09-18 09:31 | 只記録

日本の歴史をよみなおす。負について

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岳母の米寿祝で東京に滞在しているあいだ、気になっている場所を歩き調べた。今風の言葉で言えばフィールドワークということだろう。岩谷松平の代官山天狗坂、杉並和泉の島津氏菩提寺大円寺。東京赤坂の“溜池山王”などだ。

百姓という言葉はいま差別用語になっているらしい。なぜそうなったのかは知らない。だから大っぴらには使えないのだが、日本語では百姓と農民はだいたいおなじ意味だ。

ところが、中国語は、百姓とは、‘一般人、庶民’、をあらわす言葉だ。

はじめてこれを知って驚く人も多いと思う。中国語では、庶民のことを、かわいく親愛をあらわした‘老’をつけ、老百姓(ラオバイシン)と呼ぶ。

これまでの日本社会は、全体として非常に農業的な色彩が強く、近代以前は完全な農業社会と考えられてきた。

しかし、網野善彦は、この理解は、百姓=農民という誤った思い込みである。とする。彼は、日本列島の社会はこれまで考えられていたよりもはるかに非農業的であったことを炙り出した。←中国語には本来の意味が残っているのかも知れないなぁ・・。

網野史観によると、
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とくに鎌倉時代後半、13世紀後半以降の社会は、銭貨の流通が活発になり、信用経済に近い状況が展開し、さまざまな形態の資本、金融資本、あるいは商業貿易資本さらには土木建築に投資される大きな資本が動くようになってきた。つまり資本主義的であったという。
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網野史観は、表舞台の歴史とは裏腹に、裏や負の立ち居地からの見方でもある。。

近代にはいっても、明治の自由民権運動など政治家や知識人や壮士たちばかりによって推進されたのではない。壮士と博徒(やくざ)が手を組んでいた。そして博徒が負を引き受けた。

日本の中心国会議事堂近くに溜池山王という地下鉄の駅がある。ぼくはこの近くのマンションに2ヶ月ほど住んだことがあるのだが、いま埋め立てられ溜池はない。←世界どこに行っても迷わないぼくの優れた身体センサーによれば、ここいらあたり山王神社と氷川神社に囲まれた低地だった。

この溜池の開発は車善七という負を背負った男が担当した。江戸社会の中の汚物をあらかた引き受けた。それが溜池ということになる。

江戸初期のころから浅草弾左衛門という人物(襲名名称?)がいた。代々明治時代まで続く皮職人でもあった。

当時、牛を殺し生肉を扱う、皮を剥ぐというとこは賎視されていた。しかし、それを浅草弾左衛門が引き受けたかわりに、幕府は‘利益’と‘悪所’の特権を与えた。

その弾左衛門の許可がなければ市川団十郎の歌舞伎も興行が打てなかった。

中世では‘化外の民’とか‘道々外在人’と呼ばれる人々のネットワークがああり、そのネットワークが社会を融通していた。

しかし、今日ではそういうことがまったく通用しなくなった。
宗教と政治は‘政教分離’になり、差別は徹底して回避されるようになった。相撲も興行もすべて表に引きずり出された。暴力団も売春も賭博も一切禁止だ。

アウトサイダーやアウトローはほとんど排除されるようになり、アウトサイダーもインサイダーも排除され、安全な中間地帯だけが保全されていく。

いまは、そこに第三の‘負を引き取るところ’はない。そのまま法廷に持ち込まれるか、メディアに叩かれるということになっている。(参照:松岡正剛:千夜千冊)

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# by ogawakeiichi | 2014-09-15 08:42 | 日本史&思想

戦略読書日記

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鹿児島デザイン史と新三国名勝図絵(仮称)の構想から5年が過ぎた。資料や写真も随分集まり、いよいよ書き出すためのニューロン発火の時期に入ってはいるのだが、内省すればまだ熟してないよという声も聞こえてくる。そんなこともあって掘り出し物の資料を探そうと訪れた図書館で、本来集めようと思っていた資料とは全く関係のない本がとつぜん目に入り視覚にフックがかかった。おいでおいでと手招きするアフォーダンスなオーラを醸し出していた。

ちらっと捲る装丁の折り返しには「読書は経営のセンスを磨き、戦略ストーリーを構想するための筋トレであり、走り込みである。即効性はない。しかし、じわじわ効いてくる。三年、五年とやりつづければ、火をみるより明らかな違いが出てくるはずだ」の一文にもひかれた。

ざくっと目を通すと、平素な書きっぷり。す~っと通過していく清涼感とガツンガツンが交互にくる。


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スキルがビジネスのベーシックス「国語算数理科社会」の世界だとすれば、センスというのは課外活動、「どうやったらモテるか」。「モテる人」を見ればすぐにわかることだが、センスとはそういうもので必勝法や必殺技を探しにいってもそんなものはどこにもない。疑似でもいいから場数を踏んでセンスのよさということを見破ることにつきるという。

しかし、とはいうものの読書でセンスが磨けるのか?

その疑問にはこうあった。センスとは因果論理の引き出しの豊かさであって、断片をいくら詰め込んでも肝心のセンスの論理は身につかない。論理を獲得るための深みと奥行きは「文脈」の豊かさにかかっている。つまりセンスを練成するのには、読書で文脈を広げ因果倫理を考えていく、最高の読書というのは、登場人物や著者と対話しながら読むうちに、自分がその世界に入りこんで同じ時間と空間を生きているような感覚になる。その材料として読書は最強の思考装置なのである。

読書による情報の文脈を凝視すれば、因果のロジックが見えてくる。経営の名人が書いた経営戦略ストーリーが見えてくる。つまりは経営物語編集の力量が浮き出されてくるのだ。

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●本質を抉り出す「ガツンとくる」論理
●逆説を鮮やかにする「ハッとする」論理
●森羅万象をエレガントに説明できる「スバツとくる」論理

ガツン、ハッ、ズバッが満載の本です。
















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# by ogawakeiichi | 2014-09-09 22:50

オートポイエーシス・トレーニング

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膨大な量の書籍を整理処分している。デザイン修行時代、薄給のなかで何年も最優先で買い続けた誠文堂の「IDEA」。1996年から12年滞在した中国で買い集めたデザイン関連書籍。数多くのパンフレットなどなど今後見ることもしないであろうと思える書籍は思い切り処分している。束ねた書籍をもう一度振り返れば、偶然にも目に留まり“金銭”という対価の支払い動機とその後の物語があるものばかりだ。

どうしても処分しきれなかった本を見渡せばある特徴が見えてくる。それはなんど読んでもなかなか腑に落ちない濃厚な味わいをもつ謎めいたシリーズモノ。工作舎“遊”、中国の思想全12巻、梅原猛著作集、青土社や求龍堂など哲学書群だ。

ガイドブックもない時代、南アジア・インド彷徨、中国生活。チベットや新疆ウイグルへの旅へて、8000M級の山々を仰いでのヒマラヤトレック、延々と続くウイグルの砂漠の神々しさに涙したことがあったが、i言い換えれば身体感覚を通したリアリティーからの経験記憶としてインプットはしてきたが、それは次第に思索へのインナートリップへと向かっていく。

『われわれは、そもそもにおいて「単語の目録」と「イメージの辞書」と「ルールの群」によって知覚と認識と行動をおこしている(松岡正剛)』

普通一般的には「単語の辞書」だけに偏るそうだが、わたしにはなぜか旅やアート、デザインで得た視覚からの「イメージの辞書」が先行し、言葉のアウトプットすることは苦手であった。それはたぶんに「単語の目録」を記憶として保存する努力が足りなかったせいであろう。※ブログはそのための言語訓練でもあるが・・

本を整理処分するなかで捨てられなかったひとつに“オートポイエース”関連のファイルがある。このオートポイエースという概念、中国滞在中にアフォーダンスとともにわたしのもとに頻繁に降りかかってきたものだが。わかったつもりになると、するっとどこかへ消え去っていくやっかいな概念でもある。

ところでこの“わかる”という概念だがそもそもオートポイエースから“わかる”とは、「わかる」=「学習する」と言うことで、学習について一時的に知識の活用がうまくできても、それはコツの修得にどどまり能力そのものが開発されているわけではない。(河本英夫)

前置きが長くなったが、書籍整理で再会したコピーのファイルがトリガーとなりこれまで幾度も弾き飛ばされていまだ攻略できない概念オートポイエースに再び嚆矢を向けてみることにした。

さくっと、モードを変えた文章で。。。。
↓  ↓

オートポイエースというのは、デザイン言語の一つであるが、これまで使っている経験から語るのはなかなかむつかしい。しかし様々な多くの人間の可能性を生み出す考え方である。

ここに黒いモノがあるとしよう。思考実験的に、そのモノのカタチからその色だけを取り出し,持ち上げてみる。つまりカタチと色を分離してみよう。(※これはインドで龍樹の説いた『空の思想』か!?)

そんなこと、現実にはできるはずがないって。そりゃあ、もちろんそうだ。しかし、ゆ~っくりと、思考のなかで、行えば・・ほらイメージできるでしょう。

さて、持ち上げた色はどんなカタチをしているか?するとそこには、色とカタチがお互いを決定できない分だけ、その間隙にさまざまな可能性がすぐにでてくる。ここに何かを生み出すための隙間、かなり広い隙間があいていることがわかるでしょ?!。そこまで出来れば、こういう処、こういう経験に、つぎつぎと入り込んでしまおう。

入力や出力によってのみ制約されるシステム経験から、内部も外部もない、まったくちがうシステムにパッと飛び込んでみる。その『ツボ』がわかったとたん、さまざまな新しい経験がうまれでてくる。

う~ん、これは。。例えば、境界が先に存在してシステムを区切っているのではなく、その運動が境界をつくり、その運動が停止した瞬間にその境界も消滅するようなイメージだ。

つまり、『存在の裂け目』から『行為の裂け目』へ

あとはそれにテクニカルにカタチを与え、表現を与えていく。

ここにはいりこむと、アイデアはいくらでも湧き出てくる。

このトレーニングを続けて、ここに目覚めよう!

微笑みだけを残して顔を消す。そんなトレーニングをやってみよう。

内と外を裏返す、世界を裏返す。そうすれば、ほら、世界が倍に広がるはずだ。(参考:河本英夫 SFC講義)

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# by ogawakeiichi | 2014-09-05 16:23 | 情報とデザイン

文字の美・文字の力

おおっぴらには言えないのだが、某プロジェクトが発動して約1ヶ月。尊敬するデザイナー「杉浦康平さん」の担当だ。←おおっぴらに言えないならブログに書くな!。(笑

杉浦康平のデザインにはじめて触れたのは、ぼくがインドから帰国し、モノつくりを目指して飛び込んだデザイン事務所でのことである。←どちらかといえば、伝統工芸に惹かれていたのに、当時のデザインは資本の毒に侵されていた。

まず修行といえばデザイナーのアシスタントからなのだが、仕事といえばデザイナーが指示した文字指定を写植屋さんへもって走り、文字の打ってある出来あがった印画紙をもらいに行くのが主な仕事だ。

帰りはだいたい、深夜26時を過ぎていた。おかげで、文字についてかなり詳しくなっていた。いまでも、文字の書体、大きさ、行間は100%当てられる!。

そのなかでも特に、書体については詳しい。←パソコン書体が出現して、ちょっとあやしいかも・・(笑

当時、写植機のメーカーである写研から正月が近づくと驚くほどの緻密なデザインとあわせのキャプションで、ゾクッとする美しさのカレンダーが贈られてきた。そのデザインが杉浦康平だったのだ。

杉浦康平デザインのカレンダーシリーズ「文字の生態圏」が、欲しくて欲しくて、写植屋さんになんでも言うことを聞きますからカレーンダーをくださいと日参し、やっと手に入れた思い出がある。←もうひとつの写植メーカーであるモリサワは、たしか、田中一光デザインだったような。。。

そんな杉浦さんが、当時のカレンダーシリーズの一部を再構成して出版したのが、この『文字の美・文字の力』である。

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●文字は昔から、書いたり刻んだりして記すもの、「身体を動かして生み出す」ものだった。

●漢字は象形文字だと言われているが、その成立過程を考えてみて、自然の風景を写しとる、動物の姿を書き記す、人間のたたずまいを表現するといった身体的な行為が文字のかたちの背景に潜み、それが文字に生気をあたえている。

●漢字は書き手が全身を開いて自然と向かい合う。自然に潜む、不可視のざわめきをとらえきる。その結果が、漢字という文字のかたちに結晶している。つまり、漢字は自然の「かたち」をうつしとり、そのかたちに自然の「いのち」を吹き込んで産みだされた。

●文字にとって大事なことは「声の乗り物」だということだ。ただ単に目で見るだけではなく、人間の音声も写しとる。


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パソコンや携帯メールなどが普及した現代は、文字と人間の関係が激変した時代だ。

文字は書くという行為から、キーボードを打つという行為に変わり、そのため、かって文字が包み込んでいた生命力、身体性は、余分なものとして消え去ろうとしている。だが、一方で文字の魅力を新しく見直そうとする取り組みも始まっている。単なる記号に止まらない、記号性からはみ出した文字の活力を再発見しようとする動きになっていく。

アジアの漢字文化圏の日常や伝統図像に息づく、人々の祈りが込められたさまざまな文字のかたちをグラフィックデザイン界の巨匠・杉浦康平が豊富なヴィジュアルとともに読み解く国家、民族、そして現代の電子空間を超えて響きあう文字の生命力を解き放つ一冊です。



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# by ogawakeiichi | 2014-08-29 04:48 | 情報とデザイン

アブダクション

f0084105_23293121.jpgアインシュタインは「経験をいくら集めても理論は生まれない」と言った。観察によってデータをいくらたくさん集めても、既存の理論の検証が進むだけである。従来的帰納法からは斬新な新理論、イノベーション(あらたな価値の創造)は生まれない。論証を行うだけである演繹法からももちろん、新しいアイデアや新しい理論は生まれてこない。

記号論の王様、チャールズ・パースは人間の推論には演繹と推論とアブダクションの3つの形式があると指摘した。

アブダクションとは、説明すべき事実に対してたくさんの仮説を立てて、その中からもっともらしい仮説を選び出す拡張的な推論プロセスである。たしか松岡正剛は『当て推量』と言い換えていたような気がする。

パースは分析的推論として【演繹】があり、拡張的推論として【帰納】と【アブダクション】があると整理した。アイデアや新しい仮説はどうやって生まれるのか。そのあたらしい考え方がアブダクションである。

ウィキペディアによると、帰納(きのう、Induction)法とは、個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則を見出そうとする推論方法のことで、対義語には演繹法がある。演繹法においては前提が真であれば結論も必然的に真であるが、帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されない。

アブダクションは帰納に含まれるものであるが、帰納のなかで創造性の高い拡張的推論であり過謬性の高い、論証力の弱い推論でもある。だが、パースによると既存の枠組みを超えるイノベーション(あらたな価値の創造)を生み出すために不可欠な、もっとも優れた推論だと高く評価した。
ここで、思考のプロセスである代表的な演繹と帰納を整理しておく。

●演繹(deduction)
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<前提1> AならばBである。 

<前提2> Aである。

<結論> Bである。



●演繹ではない推論(広い意味での帰納 induction)

1.枚挙的帰納法(狭義の帰納)
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<前提1> a1はPである。

<前提2> a2もPである。

<結論>
(たぶん)全てのaはPである。




2.アナロジー(類推)
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<前提1> aはPである。

<前提2> bはaと似ている。

<結論>
 (たぶん)bはPである。


3.アブダクション
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<前提1>
 aである。

<前提2>
 Hと仮定すると、aがうまく説明される。


<結論>
 (たぶん)Hである。


「アブダクションは最初にいくつかの仮説を思いつくままにブレストするように提起する示唆的な段階と、それらの仮説のなかからもっとも正しいと思われる仮説を選ぶ熟慮的な推論の段階から成り立っている」

仮説はどこから生まれるのか?仮説は頭の中から自然と涌いてくるものだ。そこには何の法則も根拠も見えない。そこには、ただただ思いがけない創造的な飛躍がある。

なぜヒトは「ひらめく」ことができるのか?。なぜ人間は創造性を持っているのか。それは進化生物学的に説明がつくとアブダクション研究者は考えた。生きていくための問題をとくためには発想力が必要だ。アブダクションは人類進化の過程で自然に適応するために人間精神に備わった「自然についての正しく推測する本能的能力」であると考えた。

アブダクションでは、そうした「示唆的段階」で生み出したたくさんの仮説(アイデア)の中から、

1 もっともらしさ もっともらしい理にかなった仮説
2 検証可能性 実験的に検証可能な仮説
3 単純性 より単純な仮説
4 経済性 実験に経費、時間、思考、エネルギーが節約できる仮説

という基準で、もっとも正しいと思われる仮説を選ぶ熟考的段階に進んでいく。アブダクションという厳密でない推論こそ人類の叡智の中核をなす能力と言える。人間には創造性が進化の過程でビルトインされている。


参考引用サイト・http://www.ringolab.com/note/daiya/
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# by ogawakeiichi | 2014-08-27 11:21 | 情報とデザイン

ブランドとしての名所

f0084105_103327100.jpgなんちゃら起こしや、地域ブランドやらが近辺をウロつきだしてしている。付箋紙もったファシリテターやコンサルが登場し、紋切型で去っていく。

デザイン系でもデザイン思考として付箋紙を使ったエスノグラフィーをやるにはやるが、そこにはカタチ誕生までの責を負う。場所のブランドとはいったいなんでしょう。“日本流”からの一考察。

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さて、さて、日本では場所のブランドのことを「名所」とよぶが、この「名所」の発生というものなかなかオツなもので、誰が言い出したのははっきりしないのに、いつのまにやら人の口の端にのぼり、それが、次第に公衆のイメージマップの重要スポットになっていく。

しかもいったんそうなると名所としての地位は断然ゆるがなくて、そこへ次のイメージが連鎖され、物語がついてくる。

つまり、ブランドとしての名所は『情報の現場的発生』であり、『情報の現場的編集』を促すきっかけでもある。

日本でも、名所はおおむね古代歌謡や和歌とともに発生していった。

歌謡や和歌に詠まれたスポットがしだいに名所になっていった。

裏返せば、そこに名がつくから名所なのである.

ぼくが10年余りをすごした中国華南の桂林は山水画の世界がそのまま残る世界ブランドの観光地である.

中国では、桂林と聞けば南宋の詩人王正功が詠んだ詩句が、パブロフの犬の如く人民の口から放たれていた。

北京や上海で桂林に住んでいるといえば、知識人のほとんどが『桂林山水甲天下・・』と謳い始める。

桂林へ行ったことのない人までが『桂林山水甲天下・・』。

こりゃあもう、詩句に想起された名所ブランドだ。

その後、名所にはたくさんの物語がつくられていく。そのなかでも“劉三姐”の物語

この桂林にある観光系総合大学にいたことたことから、名所ブランドから派生した“物語”からの幾つかのビックプロジェクトを垣間見てきた。

そのひとつがこれ


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張芸謀プロデュースの超ビックスケール観光開発プロジェクト「印象劉三姐」ショーは、構想に5年5ヶ月を費やし、着工3年後の2004年3月20日、満を持して公開され、現在まですでに20万人以上の観客を動員している。←2004年で20万人。。。

桂林・陽朔の美しい山水画の世界をそのまま自然の舞台とし、さらに伝説の歌手「劉三姐」を融合させた大掛かりなショーの舞台は、2キロにわたる漓江水域とその背景にある12の山で構成されている。その自然の舞台に国内最大規模の照明技術、音響、演出効果を加え、さらにエキストラとして出演する600名ほどの地元の漁民、少数民族の娘たちが華を添える。演出のテーマは伝説の歌手「劉三姐」をメインとし、広西の少数民族風情、漓江のいさり火の風景などを組み合わせ人と自然の調和をあらわしている。
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多くの名所は名句に詠まれ,名物を生んで、経済文化のスポットにもなていく。そこが、『価値が生まれる現場』であり、『価値を編集する場所』つまり、価値が湧出する場所である。

個人的には、自分が好きなモノを選ぶので、たまさかブランドだろうが無かろうがこだわりは無いのだが、どちらかというと、センターのよろず屋から生まれたブランドより、キワのアズマ屋が秘めたブランド力につよく惹かれるなぁ。

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# by ogawakeiichi | 2014-08-23 11:58 | 情報とデザイン

水墨画家・高城等観

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大隅の山奥、大隅湖の端っこにあるKAPICセンターにて、ALTが派遣前研修を受けていた。そのプログラムに日本文化講座というのがあるのだが、ここで水墨画の初歩の初歩を伝授してきた。水墨の起源は中国なので日本文化というには“はてな”がつくが、日本水墨は日本流の進化の特徴がある。おもに臨済系修行僧のあいだで独自に変化してきたものだ。

アタシは中国滞在中、中国100人の水墨画家にも選ばれた、大師匠“帥立功”につき10年。墨にまみれた生活していましたので、守・破・離の段階を修得していく方法は身体に染み込んでいる。で、入門レベルの伝授はおてのものでした。←自画自賛~♪。

閑話休題。

室町時代の絵画の中で最も有名なものは、多くの人々が雪舟の水墨画と答え、その中でも「秋冬山水図」「山水長巻」「天橋立図」の名前が浮かぶ人も少なくない。

現代にまで名を轟かせたその雪舟だが、その雪舟の死後、だれが跡を継ぐかという問題がおこった。

長谷川等伯は、自分こそが雪舟を継いでいると言って「雪舟五代」を名乗ったこともある。正確にいえば等伯は雪舟の直系の系譜ではない。だが、雪舟を精神の師としていた。

雪舟の直系には『雲峰等悦』がいる。明にも同行したと思われる画人であるが、画業がしっかりしない。次に上げられるのは『秋月等観』だ。『秋月等観』は薩摩の武門の出で、戦乱が元で雪舟のところへきた。のち入明もした。

実は、この『秋月等観』だが、またの名を『高城等観』という。
その秋月の出身地が現在の薩摩川内市高城町である。ちなみに祖父の出身地。


高城集落は、いまでこそ京セラの工場があり、集落へと通じる道が拡張されてはいるが、祖父の自転車の後ろに乗って、よく連れて行ってもらった当時は、田圃の広いあぜ道が一直線に続き、まだ茅葺屋根の家々が杜の周りに点在する農業のムラだった。

こんな小さな集落に、雪舟の直系、それも筆頭弟子に近い人物が存在してしていたのだ。加えて、当時の中国である“明”にまで渡った水墨画家となると、これはもう、やぶさかではない。祖父は水墨画を書きながら、庭師を営んでいた。ちなみに戦中、中国へ渡っている。

『高城等観』『祖父』『アタシ』のこの三人には、“過疎の高城集落”、“水墨画”、“中国”、この三つの共通するキーワードがある。こんな相似律なんて、こりゃあ、覚悟のシンクロだ。だから、雪舟直系一番弟子・水墨画家『高城等観』のDNAは祖父を経てアタシにまで来ている!。うん。

この『高城等観』の動向と消息だが、これは、鹿児島市立美術館の学芸員・山西健夫さんの“薩摩の絵師たち”(春苑堂出版)に詳しい。山西さんはアタシを九州の新人作家の登竜門である英展に推薦してくれたひとでもある。(※ちなみに英展は九州各県を代表する学芸員が各県3名を推薦しておこなう展覧会。)だから、高城等観~祖父~ぼく。と繋がる水墨の系譜を暗喩してくれた山西さんの結びの縁起もやぶさかでない。

秋月等観(高城等観)は雪舟の直弟子である。水墨画、とくに雪舟の描く水墨画は、硬く厳しい表現で知られているが、秋月は多くの弟子たちのなかで、とりわけこの厳しい表現を受け継いだ絵画として知られている。

秋月等観の生没年については現在明らかでない。ただ『古画備考』の「秋月画竜頭観音、落款行年六十七歳入唐秋月筆」や「在唐三年秋月七十歳」の記事から、かなり長生きをした人物であるようだ。

鹿児島には伊地知季安が編じた島津家に関する資料を集大成した「旧記雑録」がある。そのひとつに「忠治様御代御寄合座身体」のなかに秋月老中という名をみる。

もうひとつは「忠隆之御代、座敷」という文献で、渋谷家が島津家を訪れた座席を示したなかに高城秋月という名前を見ることができる。

江戸時代の高名な狩野派の画家、狩野永納の「本朝画史」には島津家に使え、後年僧になったことが記されている。

雪舟の友人でもあり、島津家に招かれ、この地に薩南学派とゆばれる儒学の基礎を築きあげた

桂庵玄樹』(1427ー1508)の『島陰漁唱』の記事には、秋月禅僧は薩摩生まれで、中洲に遊芸して年すでに久し。もっぱら雲谷翁(雪舟)を師として、画工を究めその妙となす。壬子(明応元年1492年)の秋、錦旅をもって栄となす。と記載されている。すなわち、ここから秋月は雪舟を師とした画僧であることがわかる。この中に書かれている中州とは、雪舟の活躍地である山口である。

武士である高城重兼が、どうして画僧秋月として雪舟の弟子になったのだろうか。某合戦の最中行方不明となり、山口に赴いて、雪舟の弟子になったという説もあるが、詳しくはわからない。

秋月等観は、明応元年(1492年)に薩摩に戻る。

当時の薩摩は島津家を中心として高い文化を誇っていた。それは前にも触れた、桂庵玄樹を中心とした薩南学派と呼ばれる儒学の興隆があげられる。

秋月登場以前にも、鹿児島には絵画は存在しているが、それは原始時代、日本全国に共通した造形感覚がまだ成熟していない線刻画であった。その後は、藤原時代に中央から入ってきた仏画などであって、鹿児島人の気質が発揮され、日本の美術史の中で独自性をもち、中央との交渉も見られるような絵画ではなかった。

これに対し、秋月の水墨画は、雪舟の水墨画という当時、日本でもっとも優れた絵画に源がある。さらに秋月は、水墨画を薩摩に伝え、この地で多くの弟子を育成した。

雪舟の水墨画は硬質の線で構成するものが多いのだが、この硬質の線をもっとも忠実に継承したのが秋月であるとも評されている。

硬く厳しい雪舟の水墨画を継承するということは、秋月の個人的資質に起因することであるが、たぶんに秋月が武士の出身であることが硬く厳しい絵画のスタイルに影響を及ぼした可能性もある。桃山時代の織田信長や豊臣秀吉にしても、その最も重要な生活空間を厳しい水墨画で飾っている。現在、石川県立美術館が所蔵する無款の『西湖図』は秋月の筆であると考えられる

鹿児島は剛直な武士的精神をもっとも強く持っている場所である。その伝統が『武の国』鹿児島といわれる由縁でもある。

そんなことからから、鹿児島の絵画史のはじまりは鹿児島の郷土性にもっとも深く関係した水墨美術が成立することになる。

さらに、この水墨画の伝統は、単にこの時代だけではなく、その後の江戸から明治に受け継がれていく。武士的精神に関係した水墨画の剛直な表現は、江戸時代の木村探元の厳しい狩野派の絵画、明治時代の黒田清輝、藤島武二の骨太の表現とも決して無関係ではない。

すなわち鹿児島の絵画史の始まりは、秋月等観の雪舟系水墨画である。

その系譜の直系がアタシなのである。

お・わ・り。


謝謝大家


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# by ogawakeiichi | 2014-08-22 06:23