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彩遊記
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身体感覚
あるスポーツの緩やかなチームのトレーニングに参加した。

とはいっても桜島マグマ駅伝準優勝のメンバーを中心とするトライアスロンのグループなのだが、ワタシの場合、そんなレベルにろうという思いはない。

というより、年齢的に身体がついていけないのだ。ただ、マラソンを少なくとも4時間切りを久々にしたくなり、以前のトライアスロン師匠の門を叩くことにした。

なぜ再びトレーニングを再開したかといえば、駅伝を走ってみて体力の衰えの痛感だ。以来、筋トレを開始して半年が経過、身体はすこぶる調子がいい。

しかし長距離のマラソンとなると、師匠につくことはとても重要である。

なぜなら、そこには師の記憶にある様々な場面や様々なタイプの人間を想定した方法が満載しているからだ。

自分の身体を流れていく時間に合わせ改造していくための指導者がいるということは心強い。

齋藤孝は、著書『身体感覚を取り戻す』のなかで、とくに、立つ・歩く・座る。こうしたことは、日常的な行為の姿勢の大切さを説く。

しかし、きちんとした姿勢で長時間すわったり、あるいは立ち続けたりすることは、それほど容易ではない。

我が師匠はまず背筋をみて身体の歪みを指摘、次にランの手の振り方についてのクセを的確に指摘した。これは自己トレでは到底気がつかない。

自然体と言う言葉を聞いたことがあると思うが、自然体とはしっかりと地に足がついており、その大地との繋がりの感覚が腰と肚につながっている。上半身の無駄な力は抜けていて、状況の瞬時の変化に柔軟に対応できる構えになっている。

武道・芸道においては、その人の立ち方を見ただけで力量をある程度推し量ることができるとも言われている。中学、高校時代剣道をやっていた頃、構えを見ただけで勝負はついた。

自然体の中心をなすのは腰と肚である。かつての日本人は腰と肚に対して意識を払っていた。

自然体は、なんとなく立っているのではなく、強靭な足腰によって支えられているのだ。
# by ogawakeiichi | 2012-05-25 16:37 | 身体性 | Comments(0)
指宿トライアスロン
久々指宿に出かけた。旧友たちが実行委員になって開催するトライアスロン大会を見に行くためだ。

風光明媚で温泉のある街で開催される「指宿トライアスロン大会」は、歴史も20年を越え、国内有数の老舗の大会として定着していたのだが、資金難などの理由から2008年一時中止。一昨年再開へむけNPOを立ち上げ、有志により再び開催にこぎつけた大会でもある。



トライアスロンは、水泳と自転車ロードレースと、長距離走の三種目を連続しておこなう競技で宮古島や佐渡島で行われる距離が長いものは、競技時間が10時間を越えるものもある。

指宿のコースは、オリンピックと同じタイプで、競技時間は短いもののスピードレースだ。※ちなみに、今年は天候不良で水泳が中止になりデュアスロンとなったが、その判断にも敬服。

この競技がアメリカから日本へやってきたのは指宿での第一回大会の始まる少し前のこと、鹿児島でもランニングや水泳、自転車競技に飽き足らないスポーツマニアが、練習方法を模索しながら、次第にクラブへとなっていく。

一粒で3種類を味わえるスポーツは、当時からなんでもかじりたがりのぼくにとっては魅力的で、創設期も終わるころ、このクラブへと加入した。

5年後、日本で一番長い距離の佐渡島大会を十三時間でクリヤーしたのだが、世間からは、何がおもしろいのと、問い詰められた。




ところで、「指宿トライアスロン」を含め、全国規模になった「霧島サイクルジャンボリー」「錦江湾横断遠泳」 などの立ち上げに、また運営協力に携わったのもこのクラブの長老たちだ。

指宿をはじめとする大会開催への道のりは、ちっちゃな渦が次第に大きくなり、選手と大会運営者と一般ボランティアを巻き込みながら連鎖するちょっとしたコミュニティでもある。

全国へのスポーツ発信は観光鹿児島へのリピーターを生み、健康愛好者の輪をつなげていった。

ぼくはその後、中国の大学へデザイン教師としていくことになるのだが、クラブでの送別会の席で花束をもらい、トライアスロンでの日中交流の使命を受ける。

しかしそれにもかかわらす、使命を忘れ、連日連夜の中華料理の美味に溺れて、体型もすっかり変わりしだいに競技から遠ざかっていった。

指宿で久しぶりにリアルに見る大会は、スタートの時間が近づくにつれ、ぼくがレースに参加するわけでもないのに、当時の気分に戻りながら胸の鼓動が早くなっていく。


近年、社会情勢や経済情勢また参加者の減少などで自治体でのスポーツイベント開催が難しい地域も多いと聞く。

しかし老舗の大会やイベントは先達が立ち上げリレーしてきた観光資源だ。

観光とは、光を観ること。

光の観えなくなったいま、胸の高鳴りや誰かの笑顔の光に出会える機会を、『熱意と覚悟と方法』をもって、市民レベルで復活させてくれた大会でもあった。





# by ogawakeiichi | 2012-05-20 18:10 | Comments(0)
五感通してモノづくり
ある寄り合いでアヤシイ小川さんとアヤシイを枕詞に付けられ紹介された。ある会合でミニ講演をした際も、ナゾの男と枕詞をつけられた。

一般的には肩書きのない名刺を使っていたのだが、世間はなかなか許してくれない。

肩書きのないのは、ヤクザか政治家みたいですねとよく言われる。

大学講師の肩書きは、世間には受けがいいのだが、非常勤なので、この肩書も本人的には座りが悪い。

ときに世間受けするデザイナーの肩書きをつけているものの、もっぱら、コンセプトと方法論に終始して、実在するかたちが残らない仕事が多いので、これでもない気がする。

「ここはデザインする必要などないですよ」などと、ビジネスにはならない言葉を口走り、経理担当に怒られることもある。

デザインとは、カタチあるもの、たとえば印刷物の図案を書くグラフィックデザイナー。建物の設計をする建築デザイナーなどを身近に思い浮かべる人が多いだろうが、どちらかというと、私のほうは、土地を流れる時間と背景を感じ取り、そこにモノや仕組みを繋いでいくための企画書づくりや、一緒に仕事をしてくれる仲間に向けて、仕様書を書くことが多い。

デザイナーというより、郷土やアジアの歴史を読み漁り、フィールドワークにあけくれる裏方稼業だ。

昨日は、アジアからの旅行客の増加にともない、食事の不安を取り除き、トラブルのないように、中国語や韓国語を母国語とする留学生とともに、老舗・黒豚料理の店に陣取り、鹿児島黒豚の歴史を紐解きながら、日本語で書かれた品目を、中・韓・英語へと訳していった。

私たちにも、経験があると思うが、注文した品物が、目の前に並び、イメージしたものと違ったときの食い物の恨みは恐ろしい。アジアから鹿児島を訪れた客に、‘鹿児島ブランドとは何か’が伝わるよう、品々をひとつひとつ吟味しながら海外からの旅行者になりきって、しっくりこないところは、インタビューしながら訳していく根気とチームワークのいる地道な作業であった。

モノやシステムをつくっていくうえで私が大切にしているひとつに、インタビューを含む「観察」がある。

大学での授業の関係から文化人類学を専門とする先生方と同席する機会が増え気づいたことがある。文化人類学と、私の物事へのアプローチに共通しているものがある。

‘わたしとあなた’‘企業とお客様’など二項対立の姿勢に分類するのではなく、世界を‘主と客’に分けないで、五感を通して感じ取ったことから、モノや仕組みをつくり、試しながら修正していく方法である。

偶然にこの「彩遊記」の前、ユーモアの利いた「日中往来」を連載されていた陳耀さんも同席された。聞けば彼も文化人類学を専攻していたという。

ときに日本と中国の、見立ての違いはあるものの気持ちのよい時間が流れていった。
# by ogawakeiichi | 2012-05-06 16:48 | 南日本新聞コラム | Comments(0)
自己の身体性について
昨年、鹿児島トライアスロンクラブだった当時の師匠の引いたトリガーで、再び、自分自身の身体を見直すことになった。 

現在、スサラという名のスポーツNPOを立ち上げ自分の理論を駆使しながら、アマチュアでありながらも、ホンマもんを創ろうとしている師匠だ。

ここ最近、デザインついて、フィールドワークや観察力、網羅力など身体性の重要さを解きながら、ついつい自分自身の個(身体)については抜け落ちていた。

昨年、11月、お祭り程度のレースとはいえ、師匠の気楽に出てみればというトリガーで、たった2キロとはいえ20年ぶりのレース参加。バテバテだった。

それ以降、再び筋トレとジョギングを再開し4ヶ月を過ぎた。

桜島マグマ駅伝に参加。タイムは思ったように伸びなかったのだが、自分的には、なんかいい感触。。

ここで宣言、目標は来年年明けの菜の花マラソン3時間50分だ!。

まあ、宣言しとけば、言霊力・・


# by ogawakeiichi | 2012-04-10 11:35 | 身体性 | Comments(0)
多文化共生の最先端・鹿児島
鹿児島の国際交流を牽引されてきた小林基起先生が鹿児島大学を退官された。

日中関係のスペシャリストで、2001年に始まった他に類を見ないといわれる多国籍合宿と呼ばれる国際交流イベントの仕掛け人でもある。

多国籍合宿とは、約30カ国様々な国の人々が、同じ屋根の下に集い、一泊二日の合宿を行うもので、毎回400人を越える参加者が集う。

もともと留学生とのコミュニケーションから始まった合宿は、回数を重ねるごとに、参加人数が増えていき、地域住民、留学生、日本人学生が、それぞれ3分の1ずつになるよう参加をはかり、『多文化共生社会構築への挑戦』という大きなテーマに取り組むことになる。

多文化共生とは、「様々な価値観をもった人々が共に暮す社会」ということだ。簡単そうな言葉とは裏腹に現実には大きな壁が立ちはだかる。

一見お花畑的な思考に見えがちだが、同じ情報と価値観をもつ大多数のなかに、それとは異なる人間がひとり放り込まれる体験をしてみると、わかりやすい。

これは私の体験だが、2005年、私は中国で生活していた。小泉元首相の靖国参拝をきっかけに日中関係が急激に悪化、連日の反日報道によって私の周囲も雰囲気が変わっていった。

その一方、日本人である私を一番気遣ってくれたのも中国人だ。

もちろんそれは、日本に住む中国人や、外国人にとっても同じことが言えるのだ。

私たちはごく例外を除き、誕生と同時に、男と女、国籍、と言うように自ら選んだ訳でもないに分類された運命を背負っている。

合宿の参加者は皮膚の色、年齢、宗教、参加目的の相違など、参加者にとっても運営スタッフにとっても、日常生活とはかけ離れた組み合わせばかりだ。

しかしこのリアルな体験を通し、一人ひとりが『同じでありながら違う』ということ気づかされる。

例えば、同じ人間なのに、日本人は〇〇、中国人は〇〇・・というレッテルを貼りたがる。もちろんその分類を否定するわけではない。しかし、本来違うのは、個人一人ひとりなのだ。

本土最南端に位置するここ鹿児島は、中国や東南アジアに近い地理的条件から、古来より朝鮮半島・中国や東南アジアとの交流が盛んであった。

阿久根の文旦は、中国人船長、謝文旦がもたらした。薩摩川内には大陸との交流を匂わす唐浜がある。いちき串木野には、徐福渡来伝承があり、美山には沈寿官氏をはじめとする朝鮮陶工の末裔が住む。

歴史を振り返れば、鹿児島は地理的にも歴史的にも異文化を受けいれ融合させてきた多文化共生の最先端でもあった。

小林先生の最終講義では、多国籍合宿や留学生教育の話と共に、専門である中国語と言語学の立場から、鹿児島弁と、古代中国語に共通する興味深い関係(発音)を示され、多文化共生とともに大きな課題を言い残されて講義を終わった。





# by ogawakeiichi | 2012-04-04 12:35 | Comments(0)
いのちを守る300キロのもりづくり


# by ogawakeiichi | 2012-03-20 12:02 | 只記録 | Comments(0)
徐福伝承を検証してみる。【壱】
徐福伝承を調べてみる

このテーマに取り憑かれ、昨年末はいちき串木野の図書館に篭もり、文献に首ったけとなる。

いちき串木野の図書館は、さすがに徐福伝承のある街らしく、徐福コーナーが完備している。それらの本を片っ端からめくり、気になったことを書き移し、記憶に止め、フィールドにでて確認する作業に没頭した。

では、徐福がいちき串木野へやってきた伝承はどこからはじまったのだろう。

まず、いちき串木野市に徐福伝承があることは室町時代の学僧、桂庵玄樹が『島隠漁唱』文明11(1479)年に詠まれたひとつの詩文より広まった。

それ以外でも紫尾文書(冠嶽神社宮司さんの話)から上宮岳神社(古紫尾神社)の縁起に「徐福来たりて、紫の紐をこの地に納む」の記録があることを知るが、この桂庵玄樹による『島隠漁唱』の影響が大きい。

徐福曾従海外来 初知日域是蓬莱

仙園花木春常有 祝得邦君萬壽盃

仙楽花飛絃管楼 満筵佳士喜清遊

主人有徳境彌顕 一岳高擎冠九州

従一神人来脱冠 仙山景象遶天壇

層岩萬丈絶巓水 雨不添深旱不乾


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冠岳は徐福が楼船に乗って蓬莱の薬を求め、初めて下り立った地。景色と人の素晴らしさに敬意を示し、冠を脱いだのでその名がある。徐福は釈服に着替えて 栖止した。このような霊地はまさしく蓬莱であり、冠岳に太守と同席していることは千載一遇。(引用先あり)
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さて、桂庵玄樹とはどのような人物だろう。

桂庵は周防、いまの山口県で生まれ、惟肖得巌に学び、遣明船で明に副使として文明十年(一四七八年)に薩摩に招請され、五十二歳からの三十年間を文教に捧げた。その遣明船には、日本水墨のトップランナーである雪舟が乗っていた。以前ブログでもとりあげたことがある。

彼は一四七九年、当時の藩主島津忠昌と共に冠岳に住職を尋ねている。

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西嶽の形、風折烏帽子に似たり、故に冠嶽と称す(略)又一説に孝元帝の御宇、秦の徐福来て王冠を留めし故、冠嶽と称す(略)徐福此嶽より紫尾山に至り、又去て紀州熊野山に至る、皆熊野権現の祠を建つといふ、此説真偽知るべからず、といへども、旧記に随て是を記す、紫尾山は鶴田邑に詳なり(天保14(1843)年の『三国名勝図絵』、串木野・出水・冠嶽の項)
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と書いてある。もうこのころには冠岳で封禅の儀式がなされたことは通説となっていた。



# by ogawakeiichi | 2012-03-19 14:01 | 鹿児島情報史 | Comments(0)
3・11の面影
3・11の1周年を迎えた。

個展を控えて制作のまっただ中、家人が東北でたいへんなことがあったらしいと外出先から駆け込んできた。

テレビ画面からは、これが現実なのかという画像がこれでもか、これでもかと押し寄せ、制作に向かう高揚した気分は一転してかき乱されていく。いってみれば、個展という個に属する高揚のOSエンジンで絵筆をとらねばいけない瀬戸際に国家の一大事が起こった。(※三週間後のブログ

地震は津波となり、福島第一原発事故へと連鎖していった。

以来、気持ちの中に得体のしれないたいへんな暗雲が立ち込めてきた。

平成5年鹿児島を襲った8・6水害でメチャメチャになった自宅周辺、アジアを彷徨して訪れた世界最貧国の異臭とシーンがオーバーラップをはじめた。もちろんその現場の切り取り方で状況は違うのだが、その規模はともかく、そのイメージはなんとなく掴めた。

地震と津波の天災なら、復興へイザ!の勢いだけでよかったのが、一触即発のメドもたたない福島原発がそれにのしかかってきた。

すぐに、ラジオで聞いた小出裕章氏(京大原子炉実験所助教)の情報を渉猟した。小出非公式まとめ←見といたほうがいい。

以来、この状態をなんとか整理しなくてはと思いながらも、整理できないままでいた。

広瀬隆の著作『原子炉時限爆弾』は、なんの因果が大震災直前に発売され、書店で偶然にもにパラパラとめくっていたこともあり、この符合に少々驚いた。
広瀬隆講演←これは見といたほうがいい。

彼の著書『地球のゆくえ』『赤い盾』『持丸長者』は、世界構造を渉猟していた当時、触れたことがある。しかし、まさか原発の科学的領域まで踏み込んだ本があるとは思わなかった。

広瀬文脈は支配構造が閨閥によってなされており丹念な調査からロスチャイルド財閥という一本の鎖で世界の支配構造はつながっていると説いた。陰謀論とは一線を画す膨大な資料を元に書かれた本である。

原発や核事業もロスチャイルド系の独占企業。脱原発の廃炉ビジネスも太陽エネルギーなどにもロスチャイルドやロックフェラーなどの影もある。

地震から原発事故にかけて、ツイッターのタイムラインではリアルの津田大介、情緒の内田樹と論理の池田信夫が頻繁に流れていった。

内田樹の脱原発の文章には情緒があって、池田信夫の難解な原発擁護の高飛車論理には頭脳の回転がついていけない。

しかし池田の言う原発の論理も丹念に丹念に読めば次第に輪郭が見えてきた。

3・11以降、原発関連で早期に出版されたのは武田徹『私たちはこうして原発大国を選んだ』だ。


『私たちはこうして原発大国を選んだ』のタイトルには、原発を選択した覚えのない人には少々不満があるものの、原子力が日本に芽生えた経緯を書く。

第五福竜丸の被曝事故で、反アメリカ、反核感情が高まる日本に対し、アメリカ政府のワトソンが、反米感情の高まりを鎮めるために、柴田秀利という人物に何か妙案はないかと頼み込んだことにはじまる。

キーマンは柴田秀利。

柴田は日本にテレビを導入する過程で、アメリカから1000万ドルの借款をと引換に、反核のイメージを一新させる原子力の平和利用という面からも正力松太郎と組んで、読売新聞を用いた空前絶後の原子力平和利用のキャンペーンをはじめる。

正力松太郎が原子力発電・生みの親と言われれる所以だ。

仕掛け人・柴田秀利。メディアと警察権力・正力松太郎。政治・中曽根康弘の三羽烏は、原発を推進していく。

読売新聞のキャンペーンは功を奏し、戦後の原子力の平和利用という文脈のなか、発展の礎として熱狂的に受け入れられてきた。

しかし、次第にエコロジーの考え方や不安が広まっていくにしたがって、原発の意味というものが揺らいでいく。
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70年代は環境の時代と呼ばれるようになって、周りの様子は経済成長一本やりではなくなっていく。でも原発は残った。地域振興策が進められ、立地の地元では原発なしにはやっていけない経済構造ができていく。こうなると地域周辺の反対運動は、原発をなくすような先鋭的なものではなくて、ある種の条件闘争のような、交付金を視野に入れたものになってくる。

21世紀になると、地球温暖化が危惧視されるようになってきて、市民運動は温暖化対策に熱狂的になる。たとえば、「チーム・マイナス6%」という自民党の政策にのった市民運動家はたくさんいた。でもそれを実現するためには、当時はまだ再生可能エネルギーはほとんどなく原発依存なわけである。チーム・マイナス6%、温暖化反対といった時点でじつは原発賛成だった。

また、民主党に政権が変わったときも、民主党は基本的に原発推進政党でしたから、政権交代を望んだ人は原発賛成。しかし、そうしたことはつねに意識されない。『私たちはこうして原発大国を選んだ』
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石井彰は著書「エネルギー論争」のなかで、電力問題のみを論ずるのではなく、電力を含む全体のエネルギー論の観点から包括的に検討すべき点を主張している。(電力消費は全体の2-3割)

将来のエネルギー選択に関して。原発擁護派と再生可能エネルギー推進派で繰り広げられる白か黒かの議論にも警鐘をならす。

筆者は現時点では、魔法の解決策はどこにもなく、幾分ベターな現実的な選択肢をもって、英語でいう「マドリングスルー(なんとかかんとか折り合いをつけていく)」方策をとるしかないと訴える。

そのカギとなるのが、天然ガスの積極的活用と、エネルギー源と地域の分散化、多様化である。副題「天然ガスと分散化が日本を救う」が内容を端的に示している。



かくして、どの説を信じるかで、原子力を巡る評価は異なる。

計器の正しさを経験的に信頼し、この人は信頼できると感じられる人を信じ、手持ちの放射線の関する知識を信じる。

こうして確立された「信頼」の機能は、ニコラスルーマンによれば「複雑性を縮減させる」ことだという。つまり、「信頼」するにあったって「行為者は情報の不足をあえて無視」する。

本当の意味で十分に吟味された科学的演繹を行なっている人は反対、推進にも実は少ないのかも知れない。

何を信ずるか、何に気づき、何を忘れれるかなどによって、安心から不安まで揺れる大きな振幅の中でぼくたちは生きているのだ。

脱原発では中沢新一が緑の党をつくり、思想家・吉本隆明は反原発運動を憂う。ふたりともぼくが大きく影響を受けた思想家たちだ。


『松岡正剛』はこう言う。
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ぼくは混乱しそうになるアタマを整理しながら、3つのストリームが自分のなかで錯綜しているのを見た。
 
(1)この災害が東北を襲ったことについて、ずっと考えて行かなければならないだろう。それには蝦夷の歴史から今日の町村の現実まで眺め渡さなければならないだろう。

(2)国家と原子力のことについて、何らかの見通しと判断をしなければならないだろう。それには世界のエネルギー問題や環境問題まで見渡す必要がある。

(3)危難とリスクとその解消と保持の関係について、かなり深い問題を浮上させなければならないだろう。

それには資本主義経済下の社会学や現代思想の根本をぐりぐり動かすべきだろう。

いずれも厄介な難題だ。が、ぼくは時間をかけてでもこの難問を考えていこうと思った。
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我が師も、おなじようなところで立ち止まり、難問に取り組んでいた。



# by ogawakeiichi | 2012-03-12 15:56 | 日本史&思想 | Comments(0)
かごしまの都市計画を考えてみた。
かごしまの都市計画を考えてみた。


【このはなのさくやみち構想】

↓写真があやしいな、、


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門前町の参道では、人々はただ神殿へと向かう。ここでは桜島を聖なる山に、中央駅からドルフィンポートまでを参道と見立て、無意識のうちに人々がこのラインを中心線として往来する動線を考えてみた。

ヨーロッパや中国ははじめに全体像があって部分はあくまで全体の要素としてとらえる。しかし日本では部分からはじまりそれらを積み上げて全体をつくる。神経系のシナプスが伸びていく様子と似ている。

今回、鹿児島中央駅から、天文館へ向かう通りを観察してみると、高見馬場~鍛治屋町~高見橋の間は徒歩での交通量が非常に少ない。通りに面した建築が単調なため、にぎやかさがなく、通りとしての魅力にかける。とすれば、力ある建築、オープンテラスのようなカフェ、自由な通りの演出などで、人が集まりやすい空間(核)をつくり、分断箇所を繋いでやる必要がある。また、フランスで採用されているヴェリブ方式で(自転車貸出システム)で、可動性の自由度をより高めることも必要なのではと思う。



このはなのさくやみち構想
◎トラムと、自転車と、徒歩の3通りで誘導。
◎サクラ島への参道感覚?
◎鹿児島中央始発、ドルフィンポート着のトラム
◎鹿児島中央駅は、タクシー乗り場を移し、
引き込み線を敷設して始発駅にする。
◎10年後、公共交通機関以外は入れなくする
◎左右に自転車道をつくる
◎街路樹が十分に木陰をつくる道
◎自由度の大きい歩道空間、歩道を広場とみなす
◎しかし、パラソルなどカラーは統一する
◎夜の7時以降は通行止め、屋台が並ぶ
◎駅周辺、通りのサイン計画の徹底
◎力をもっている建築物をつくる。
◎五感で感じる通り
◎おどろきと、共感、おもてなし。


モノとコトと相互性が繋がる場を目指していく。。





# by ogawakeiichi | 2012-03-09 13:00 | 鹿児島情報史 | Comments(4)
日本のカタチ
う~ん、。。日本の国家デザインを振り返っていると、再び南北朝から明治維新への文脈に立ち止まってしまった。

極めつけは、水戸学から唸りをあげて明治へ向かう流れなのだが、これまでなんど組み換え、整理してきたのだろうか。振り返るたびに見方が変わっていく。

それを揺るがす大元は水戸学なのだが、ここがなかなか定まらない。

なぜ、水戸光圀が「日本の面影」の正体を知ろうとしたのか。そのキッカケをつくったのは中国人・朱舜水なんだけど。。。またまた振りかえり~。
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朱舜水は、光圀に「日本のレジティマシー」について研究しなさいと言った。

正統な天皇は、南朝なのか北朝なのか・・それについて水戸は「水戸彰考館」なる歴史編集研究所を立ち上げ、「大日本史」の編集にとりかかった。

そこで見えてきたのが、南朝を正統とする見方であった。

日清、日露戦争でも、太平洋戦争の渦中でも南朝の楠木正成は「忠君愛国」の象徴として君臨してきた。

楠木一党は、元来「悪党」だった。悪党といっても現代の文字面の意味ではない。

悪党とは現在の言葉になおせばアウトローだ。ということは水戸藩にとって、すなわち「天皇と無頼」という系譜こそが日本の正統だったわけになる。

徳川幕府にとっても日本の正統性をどう見るかの問題が巻き起こる.この問題については誰もが悩んだ。

「徳川の日本」には。大まかには3つのモデルがある。

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一つは慕夏主義。
二つ目は、水土主義。
三つ目は中朝主義。
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慕夏主義とは、中国の奥にある神話的中国王朝。中国の分母的なもので、過去の偉大な国にモデルを求めていけば後の王朝は作られるという考え方で、奈良朝がつくった平城京モデルは唐の律令モデルを真似たもので、さらに唐朝は、夏や周のモデルを想定したものだった。

2つ目の水土主義は自分の国にあったモデルをつくったほうがいいという考えかた。いいかえれば、どんなモデルも日本的に改変したほうがいいと言うモデルである、これは熊沢蕃山がらが提唱した。のちに貝原益軒を含めた日本の本草学や吉宗の国産物産論へとつながっていく。

3つ目のモデルが「中朝主義」で、山鹿素行らが推進した。この中朝主義をひとことで言えば、「中華」という思想を日本へそのままもってこようというもので、自分の国を世界の中心と考える思想だ。この中朝主義がなにやらかにやら引用されて問題を引き起こしていく。

中国は三〇〇〇年に渡ってずっと華夷秩序にもとずいた中華帝国を理念としてきた。そこからみれば日本はつねに辺境でしっぽをふって言うことを聞いている間は認めるが、勝手は許さないというやつだ。これはいまでも中国のお家芸である。

しかし、その当時、中国は漢族の明朝だったのだが、それが異民族である満州族にとって変わったのだ。

これは日本にとっても、思想の一大事!

つづく・・
# by ogawakeiichi | 2012-03-08 23:27 | 日本史&思想 | Comments(0)
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