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彩遊記

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水墨画家・高城等観とは・・

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大隅の山奥、大隅湖の端っこにあるKAPICセンターにて、ALTが派遣前研修を受けていた。

その研修プログラムに日本文化講座というのがあるのだが、ここで水墨画の初歩の初歩を伝授してきた。

正確には水墨の起源は中国なので純粋な日本文化というには“はてな”がつくが、日本水墨には日本流独自の進化の特徴がある。臨済系修行僧のあいだで独自に変化してきたのだ。

師匠“帥立功”につき10年。墨にまみれた生活のなかで守・破・離の段階を修得していく方法は身体に染み込んでいる。

閑話休題。

室町時代の絵画の中で最も有名なものは、多くの人々が雪舟の水墨画と答え、その中でも「秋冬山水図」「山水長巻」「天橋立図」の名前が浮かぶ人も少なくない。

現代にまで名を轟かせたその雪舟だが、その雪舟の死後、だれが跡を継ぐかという問題がおこった。長谷川等伯は、自分こそが雪舟を継いでいると言って「雪舟五代」を名乗ったこともある。正確にいえば等伯は雪舟の直系の系譜ではない。だが、雪舟を精神の師としていた。

雪舟の直系には『雲峰等悦』がいる。明にも同行したと思われる画人であるが、画業がしっかりしない。次に上げられるのは『秋月等観』だ。『秋月等観』は薩摩の武門の出で、戦乱が元で雪舟のところへきた。のち入明もした。

実は、この『秋月等観』だが、またの名を『高城等観』という。
その秋月の出身地が現在の薩摩川内市高城町である。

ぼくの祖父の出身地だ。


高城集落は、いまでこそ京セラの工場があり、集落へと通じる道が拡張されてはいるが、祖父の自転車の後ろに乗って、よく連れて行ってもらった当時は、田圃の広いあぜ道が一直線に続き、まだ茅葺屋根の家々が杜の周りに点在する農業のムラだった。

こんな小さな集落に、雪舟の直系、それも筆頭弟子に近い人物が存在してしていたのだ。加えて、当時の中国である“明”にまで渡った水墨画家となると、これはもう、やぶさかではない。ぼくの祖父は水墨画を書きながら、庭師を営んでいた。ちなみに戦中、中国へ渡っている。

『高城等観』『祖父』『ぼく』のこの三人には、“過疎の高城集落”、“水墨画”、“中国”、この三つの共通するキーワードがある。こんな相似律なんて、こりゃあ、覚悟のシンクロだ。だから、雪舟直系一番弟子・水墨画家『高城等観』のDNAは祖父を経てぼくにまで来ている!。うん。

この『高城等観』の動向と消息だが、これは、鹿児島市立美術館の学芸員・山西健夫さんの“薩摩の絵師たち”(春苑堂出版)に詳しい。山西さんはぼくを九州の新人作家の登竜門である英展に推薦してくれたひとでもある。(※ちなみに英展は九州各県を代表する学芸員が各県3名を推薦しておこなう展覧会。)だから、高城等観~祖父~ぼく。と繋がる水墨の系譜を暗喩してくれた山西さんの結びの縁起もやぶさかでない。

秋月等観(高城等観)は雪舟の直弟子である。水墨画、とくに雪舟の描く水墨画は、硬く厳しい表現で知られているが、秋月は多くの弟子たちのなかで、とりわけこの厳しい表現を受け継いだ絵画として知られている。

秋月等観の生没年については現在明らかでない。ただ『古画備考』の「秋月画竜頭観音、落款行年六十七歳入唐秋月筆」や「在唐三年秋月七十歳」の記事から、かなり長生きをした人物であるようだ。

鹿児島には伊地知季安が編じた島津家に関する資料を集大成した「旧記雑録」がある。そのひとつに「忠治様御代御寄合座身体」のなかに秋月老中という名をみる。

もうひとつは「忠隆之御代、座敷」という文献で、渋谷家が島津家を訪れた座席を示したなかに高城秋月という名前を見ることができる。

江戸時代の高名な狩野派の画家、狩野永納の「本朝画史」には島津家に使え、後年僧になったことが記されている。

雪舟の友人でもあり、島津家に招かれ、この地に薩南学派とゆばれる儒学の基礎を築きあげた『桂庵玄樹』(1427ー1508)の『島陰漁唱』の記事には、秋月禅僧は薩摩生まれで、中洲に遊芸して年すでに久し。もっぱら雲谷翁(雪舟)を師として、画工を究めその妙となす。壬子(明応元年1492年)の秋、錦旅をもって栄となす。と記載されている。すなわち、ここから秋月は雪舟を師とした画僧であることがわかる。この中に書かれている中州とは、雪舟の活躍地である山口である。

武士である高城重兼が、どうして画僧秋月として雪舟の弟子になったのだろうか。某合戦の最中行方不明となり、山口に赴いて、雪舟の弟子になったという説もあるが、詳しくはわからない。

秋月等観は、明応元年(1492年)に薩摩に戻る。

当時の薩摩は島津家を中心として高い文化を誇っていた。それは前にも触れた、桂庵玄樹を中心とした薩南学派と呼ばれる儒学の興隆があげられる。

秋月登場以前にも、鹿児島には絵画は存在しているが、それは原始時代、日本全国に共通した造形感覚がまだ成熟していない線刻画であった。その後は、藤原時代に中央から入ってきた仏画などであって、鹿児島人の気質が発揮され、日本の美術史の中で独自性をもち、中央との交渉も見られるような絵画ではなかった。

これに対し、秋月の水墨画は、雪舟の水墨画という当時、日本でもっとも優れた絵画に源がある。さらに秋月は、水墨画を薩摩に伝え、この地で多くの弟子を育成した。

雪舟の水墨画は硬質の線で構成するものが多いのだが、この硬質の線をもっとも忠実に継承したのが秋月であるとも評されている。

硬く厳しい雪舟の水墨画を継承するということは、秋月の個人的資質に起因することであるが、たぶんに秋月が武士の出身であることが硬く厳しい絵画のスタイルに影響を及ぼした可能性もある。桃山時代の織田信長や豊臣秀吉にしても、その最も重要な生活空間を厳しい水墨画で飾っている。現在、石川県立美術館が所蔵する無款の『西湖図』は秋月の筆であると考えられる

鹿児島は剛直な武士的精神をもっとも強く持っている場所である。その伝統が『武の国』鹿児島といわれる由縁でもある。

そんなことからから、鹿児島の絵画史のはじまりは鹿児島の郷土性にもっとも深く関係した水墨美術が成立することになる。

さらに、この水墨画の伝統は、単にこの時代だけではなく、その後の江戸から明治に受け継がれていく。武士的精神に関係した水墨画の剛直な表現は、江戸時代の木村探元の厳しい狩野派の絵画、明治時代の黒田清輝、藤島武二の骨太の表現とも決して無関係ではない。

すなわち鹿児島の絵画史の始まりは、秋月等観の雪舟系水墨画である。

その系譜の直系がおいらなのである。

お・わ・り。


謝謝大家
by ogawakeiichi | 2009-03-18 07:56 | 鹿児島情報史
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