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彩遊記

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サクラ、咲く、西行。

サクラ、咲く、西行。_f0084105_2085319.jpg我が家の近くに不動尊を祀る杜がある。その杜ではいまから満開へ向かう桜と、山桜の落下狼藉がはじまった。

「桜」は、一説には「咲く」に複数を意味する「ら」を加えたものとされ、もともと、花の密生する植物全体を指したと言われている。また、春にかけ里にやってくる稲(サ)の神が憑依する座(クラ)。(サ)(クラ)それがサクラであるともいわれている。

桜は、春を象徴する花として、日本人にはなじみが深い。風流を称して「花鳥風月」というが、平安時代までは和歌などで単に「花」といえば「梅」をさしていた。しかしのち「桜」の人気が高まり「花」といえば桜をさすようになった。ちなみに、中国の代表的な花は梅である。桜と梅のこのことは以前書いたことがあるのでそちらをご覧いただきたい。

有名な一休宗純の「花は桜木。人は武士・・・」があるが、じつは江戸中期の人形浄瑠璃のセリフから発したものだ。その頃までに「花」は「桜」のイメージが日本で定着した。

国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜かな」と詠み、桜と日本のこころを「もののあはれ」で共振させた。敷島の道といえば、日本という意味になる。大和心とはまさしく文字のとおりの意味である。どうやら先の戦争で国家と桜がむすびつけられたのは、この歌にありそうだ。明快な歌であるだけに最も有名な“犯人”としてだれもがあげた。

また明治時代、新渡戸稲造の著書『武士道』では「武士道(シヴァリー)とは日本の象徴たる桜の花のようなもの」と冒頭に記している。

そのなかでも、『桜』アナロジーと言えば、・・・そう、やっぱり『西行』だ。




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きょうは快晴。窓から外を仰いでみれば桜島には霞がかかり、かすかに“はえ”を感じる春日和、こんな日は『桜、西行』に浸ってみたい。平安時代の歌人・西行が、月と花(サクラ)を愛したことは人口に膾炙している話だが、桜のもとで死にたいと願った歌人であった。
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『願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ』


◆西行は、この歌に詠んだとおり、文治6年(1190年)二月十六日七十三歳で葛城山麓の弘川寺で入寂した。まさに桜の真っ盛り、太陽暦で三月二十九日あたりにあたる。この歌のように入滅した西行の様は、あたかも桜と心中である。桜との“同期の桜”だ。


『春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり 』


◆この歌はすこぶる数寄だ。『・・さめても胸のさわぐなりけり』がとくにイイ。ここには実体としての光景はなにもない。桜に風が吹いたら散るだろうという思いが、その思いを感じるだけで胸騒ぎがするのだ。それが西行には「夢」か「現(うつつ)」かの揺動さえ交じっている。

西行は、二十三歳で出家した。これを『出家遁世』とも『数寄の遁世』ともいう。それまでの西行は佐藤義清という武人であった。妻子もあった。西行は実は平清盛とまったく同い歳で、二人ともが鳥羽上皇の北面の武士であった。なかなか勇敢なはたらきをしたらしい。蹴鞠もうまかったという。ところがその約束された栄達をことわって西行は二十三歳の春、妻子に別れを告げて突然出家する。遁世する。

西行の回りの人たちはまったくその理由がわからず驚いた。いまでも出家の動機は謎のままだ。しかし、時代は源平争乱の真っ只中である。時代の無常からは逃れられるはずはない。当然に現世の波乱と心の旅とが組み合わさって、何十度となく西行を襲っていく。同期の清盛の没落も頼朝の勃興も、まったく同時代の出来事だったのである。

出家後はしばらく寺寺や草庵を転々とし、陸奥への初旅から帰ると、高野山に入る。この時代でいえば、武家の方から高野聖の伝統というものに歩み寄っていった。高野聖とは高野山から全国に散っていった遊行僧のこと。西行は本来の修行には専念せず歌をつくることに一生懸命になっていく。

生きる希望を豊かに持てるはずの若者であった西行が、なぜ23歳で出家したのだろうか。西行を本当に考えていくには、その心、その魂を一番凝縮した、西行自身の残した濃密で力強い「歌」を重視しなければならない。


『鈴鹿山、浮き世をよそにふりすてて、いかに成り行く 我が身なるらむ』


◆これは西行が出家をしてまもなくのまだ若い頃の歌だ。
出家してなおその直後から西行は迷っている。苦しんでいる。悩んでいる・・・。和歌は他の文章よりも濃密な言葉でできている。その小さく単純な形式の中に込められている思いの深さを読み取っていかねばならない。

題詠とは、題をきめて、それに即して詩歌や俳句を作ることだが、平安から新古今和歌集のころ(中世)には、恋の歌の題が非常に複雑になり、「逢ひみての恋」「別れて後の恋」「逢ひて逢はざる恋」などの歌題で歌が詠まれた。西行も出家してから後も情熱を注いで恋の歌を詠んでいる。中には題詠ばかりでなく、身につまされるような思いで詠んだ歌もあるかもしれない。


『吉野山。こずえの花を見し日より、心は身にもそわずなりにき』


◆西行の花の歌の代表的なものは、吉野で詠まれている。吉野山の梢に咲く桜を見た日から、自分の心が身にそわなくなってしまった。肉体から魂が浮かれ出てしまって、桜の周りに漂うようになってしまった、というのだろう。西行は非常に心の激しい人だ、同時にひたすら他者の魂(人だけでなく、木や草や峠や庵、あるいは虫や鳥)に心を惹かれる、そして自分の心が乱れに乱れ、いたみにいたむ。そういう人なのである。

◆西行が出家まもなくの若いころ、出家恋愛説の対象として知られる皇后の失脚事件がある。また、西行が伊勢に来たのは、平家が滅びに瀕し、都落ちをしていくころだ。そういう時代に西行のように感受性の強烈な人が生きていくのは耐え難かったのだろう。


『ここをまた わがすみ憂くてうかれなば、松はひとりとならむとすらむ』


◆内に潜む漂白の心 を庵の前の松の木を詠んだ歌であろう。ここでもまた住みづらくなって、さすらっていったならば、ここに住んでいた間自分の心を慰め、励まし、ときに同じ思いを嘆いてくれたこの松は、
またひとりきりの松にもどっていくのだなあ・・・。と詠む。庵そのもの、それを取り巻くもの、心を寄せてくれる村人たち・・・そういうものに心が絡んでいってしようがなく、それが極限に達した時、そこを振り捨てて旅に出る・・・。西行は多感と断念を繰り返してゆく深い情念の人だった。


『榊葉に心をかけん木綿垂でて思へば神も佛なりけり』


◆西行は心の中の神と仏を詠んだ。“かける”とは神や仏に思いを集中すること。榊の葉にわが心をかけよう。清らかなゆうを垂らしてひたすらに集中して思うと、神も仏であることだ。このころの日本人には神仏習合の信仰が根付いていた。仏が姿を変えて現れたのが日本の神だという考えかたで、神も仏も一緒に祀られていた。


『深く入りて神路のをくを尋ぬれば、またうへもなき峰の松風』


◆西行は神宮の神職たちと、歌を通じて交流を深めていった。住んでいたところを振り捨ててさすらったのち、二見浦の山寺にいるときに、大神宮の神霊の鎮まっていらっしゃる神路山の、その奥に入って峰の松風を聞く。これは大日如来が垂迹して天照大神として姿を示しになったのだと思い、そのありがたさに感動して詠んだ歌だ。


『今ぞ知る二見の浦の蛤を貝合とておほふなりけり』


◆伊勢の二見浦で、童女たちが都で貝合わせとして使うための蛤を拾っている。それをみて「はじめて知った。二見浦の蛤の貝を貝合わせとして拾うのだなあ」と詠んだ歌だ。人や自然との優しい交流。。心なごむ西行だ。

◆西行にまつわる謹厳な、あるいは幽玄な伝説の中に「西行返し」というような滑稽な説話がある。表向きの歴史や文学史では見落とされているのだが、しかし、われわれはこのような遊び心を忘れずに持っていないと、すべての文化は枯渇し、形骸化してしまうのではなかろうか。「遊び」は魂をのびのびとし感動を深くすること。音楽や舞などの中に心を遊ばせて、人々は心を深くする。「学び」は“まねび・模倣”である。学問や文学には「遊び」と「学び」の両方が必要なのだ。

お・わ・り


参考・引用
松岡正剛・花鳥風月
サクラ・ウィキペディア
岡野弘彦・歌にみる西行の心
by ogawakeiichi | 2009-03-21 09:31 | 日本史&思想
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