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彩遊記

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鹿児島情報資料・天狗煙草

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明治の煙草王

明治30年代、日本一の目抜き通り銀座に真っ赤に塗った店。
「勿驚(おどろくなかれ)税金三百万円」「国益の親玉 東洋煙草大王」と書かれた大看板。自らも真っ赤な衣服に身を包み、したり顔の店主。この男こそ、銀座の名物天狗とも呼ばれ、世間を騒がした明治のたばこ王、岩谷松平(いわやまつへい)(1849-1920)です。

現在の鹿児島県薩摩川内市(さつませんだいし)に生まれた岩谷は、明治10(1877)年の西南戦争で家屋を焼かれたことを契機に上京し、銀座3丁目(現松屋銀座付近)で薩摩の特産品を販売し始めました。また岩谷は、当時外国からもたらされていた紙巻たばこに、いち早く目をつけ、その製造に取りかかります。そして明治17(1884)年頃、「天狗たばこ」を発売しました。まだまだキセルで吸う刻みたばこが全盛であった日本において、岩谷は、“大安売の大隊長”を名乗り、引札、看板、新聞広告など、ありとあらゆる広告手段を使って宣伝を行い、紙巻たばこを大いに広めました。

そして明治30年代、外国のたばこ会社の資本を背景に、日本のたばこ業界を席巻しようとした村井吉兵衛の「株式会社村井兄弟商会」が登場すると、岩谷は「国益の親玉」として村井に対決を挑みます。たばこが専売になる明治37(1904)年まで続いた販売競争は、「明治たばこ宣伝合戦」と称されるほど激しく、明治以降の宣伝広告のあり方、さらには印刷技術の発展に大きな影響を与えました。

岩谷松平(いわやまつへい)は、嘉永2(1849)年に薩摩に生まれました。その4年後にはペリーが来航し、以後、日本は幕末、明治維新と激動の時代を迎えることになります。そんな時代の荒波の中、岩谷の人生も大きく動いていきました。

明治2(1869)年、藩の御用商人を勤めたこともある岩谷本家の家督を継ぎ、養蚕業などにも手を延ばした岩谷でしたが、明治10(1877)年に起こった西南戦争の戦火により、家屋を焼失。それを契機に上京し、明治11(1878)年には銀座3丁目に「薩摩屋」の屋号で店を構え、薩摩絣(さつまかすり)や鰹節、そして国分のたばこなど、薩摩の特産品を販売し始めました。

時あたかも文明開化の時代、さまざまな文物とともに欧米からもたらされた紙巻たばこが、東京などの都市を中心に広まりつつある頃でした。

岩谷が店舗を構えた銀座煉瓦街が象徴するように、明治初期は文明開化の名の下に、欧米からもたらされる制度、知識、文物が積極的に取り入れられていきました。その風潮の中で、都市部の人々の目を引いたものの一つが、紙巻たばこです。

当時、「細刻みたばこをキセルで吸う」という喫煙が主流であった日本では、外国からもたらされたキセルを必要としない紙巻たばこの簡便さと、それを包むパッケージの美しさは、ハイカラ志向の人々を引きつけました。国内でも、一説によれば、明治2(1869)年には、土田安五郎が紙巻たばこの製造を試みたとされています。また、明治6(1873)年に開催されたオーストリアのウィーン万国博覧会に参加した竹内毅と石川治平は、紙巻たばこ製造機を買い入れ、その機械で製造した紙巻たばこを明治10(1877)年に開催された第1回内国勧業博覧会に出品。褒状を獲得しました。これを受け、明治10年代になると、都市を中心に紙巻たばこの製造に関する新聞記事が見られるようになります。

しかし、地方では、依然として細刻みたばこが好まれており、品質では外国製品より劣っていた国産紙巻たばこは、苦戦を強いられていました。

岩谷松平を語る上で欠かせないのが、「赤」という色です。岩谷は、店舗も赤、馬車も赤、そして自ら着る服も赤にして、世間を騒がせました。

この「赤」を選んだ理由に関しては、岩谷本人が語ったとされる演説の逸話が残っています。明治16(1883)年、岩谷を中心として、商人社会改革を目的に、日本商人共進会が設立。岩谷は東京・芝の紅葉館で行われたその発会式で、「日本の商人は、欧米に比べればまだまだ赤子であるとして、その戒めのために赤子を示す“赤服”を着ている」と述べました。その後、この演説は「岩谷の産衣演説」として世間に知られるようになりました。

自らのたばこの名につけた「天狗」。現在のところ、それがいつからで、またなぜその名を付けたかは不詳です。ただ、大正2(1913)年の「岩谷松平 人道株式会社 金写真」のチラシには、「猿田彦神(さるたひこのかみ)」の名を見ることができます。

猿田彦神は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原(たかまのはら)から日向国(宮崎県)高千穂の峰に下った、いわゆる天孫降臨のときに、その道案内をつとめた神で、その鼻が非常に高く、恐ろしい顔つきをしていたとされています。

岩谷松平の出身地、薩摩川内市にある新田神社は瓊瓊杵尊が葬られた場所として知られ、そこには古くから真っ赤な猿田彦神の面があります。この他、南九州地方各地には、天狗にまつわるさまざまな伝説が残っており、こうしたところから、「天狗」の名を付けたのではないかと考えられています。

「花は霧島 煙草は国分」と歌われるように、たばこは薩摩の特産品の一つとして江戸時代から知られており、岩谷松平も、伝統的な国分の刻みたばこなどを「薩摩煙草」として販売していました。

一方、岩谷は外国からもたらされた紙巻たばこにもいち早く目をつけ、弟・右衛(うえ)らをアメリカに派遣し、製造技術を学ばせるなどして、自身でも本格的な製造に着手。そして明治17(1884)年頃に、口付紙巻たばこ「天狗たばこ」を発売しました。まだまだキセルで吸う刻みたばこが全盛であった当時の日本において、岩谷は、“大安売の大隊長”を名乗って、赤服に身を包み引札、看板、新聞広告など、ありとあらゆる広告手段を使って宣伝を行い、紙巻たばこの普及に努めました。

そして明治20年代になると、第3回内国勧業博覧会で岩谷商会が出品した紙巻たばこが有功賞三等を獲得。さらに、宮内庁から日清戦争での恩賜のたばこの製造委託を受けるなど、紙巻たばこ「天狗たばこ」とともに、「天狗の岩谷」の名は、明治の世に広まっていきました。

「天狗の岩谷」の名が世間に広まりつつあった明治24(1891)年、京都で新しい紙巻たばこが発売されました。村井吉兵衛製造による両切紙巻たばこ「サンライス」です。その後村井は、「輸入葉たばこ」を使って「ヒーロー」を発売し、さらにアメリカのたばこ会社と資本提携をして「株式会社村井兄弟商会」を設立するなど、順調に事業を拡大していきます。これに対し、“国益の親玉”を自称する岩谷松平は、「国産葉たばこ」を強調するなどして村井に対抗しました。

「東vs西」「赤vs白」「口付vs両切」「和vs洋」など、それぞれが対抗するように行われた宣伝は、当時考えられるありとあらゆる広告媒体を通じて繰り広げられ、明治以降の宣伝広告のあり方に大きな影響を与えていきます。特に村井が、明治34(1901)年、東京に本社を移転すると、その宣伝の応酬は激しさを増し、「明治たばこ宣伝合戦」と称されました。

こうした宣伝合戦の結果、大量に作られることになった紙巻たばこのパッケージは、印刷技術の発展にも寄与していくことになります。

村井吉兵衛(1864-1926)は、京都のたばこ商の家に生まれました。東京での岩谷商会・千葉商店の盛況ぶりを視察し、紙巻たばこの流行の機運を感じた村井は、アメリカ人技師の指導を受けながら紙巻たばこの製造に着手。明治24(1891)年に「サンライス」を発売しました。翌25(1892)年には、東京・日本橋区室町2丁目に支店を出し、岩谷の天狗たばこ、千葉の牡丹たばこなどと本格的な競争が始まりました。

「サンライス」が順調に売り上げを伸ばしていく中、村井は自らアメリカに渡り、葉たばこの栽培から紙巻たばこの製造、さらには販売や宣伝方法まで調査を実施。ここでアメリカ葉の輸入ルートを作った村井は、帰国後、アメリカ葉を使ったたばこの製造を開始します。そして、明治27(1894)年3月に発売されたのが、両切紙巻たばこ「ヒーロー」です。

「ヒーロー」はそれまでの日本のたばこにはない新しい味に加え、音楽隊などの洋風宣伝が功を奏し、瞬く間に売り上げを伸ばしていきました。その成功を受け、同年5月さらなる事業拡大を目指し、実兄で村井本家を継いでいた弥三郎と組んで、「合名合資会社村井兄弟商会」を設立。そしてこの年の8月、日清戦争勃発を受け、紙巻たばこの需用が急速に高まる中、その市場を巡って、岩谷商会と村井兄弟商会の販売競争が激化していきました。

明治30年代、激しい「たばこ宣伝合戦」が繰り広げられる一方、村井兄弟商会の背後にいたアメリカン・タバコ会社の世界進出をもくろむ動きと、大蔵省によるたばこ製造専売制施行に向けた動きが次第に表面化していきます。

村井、千葉などの多くのたばこ商が、製造専売に反対をする中、"国益の親玉"を自称する岩谷松平は政府と連係を保ちつつ、専売制施行に賛成の動きを見せました。そして、明治37(1904)年2月、日露戦争が勃発すると、戦費調達という国家的命題の前に、反対運動も沈静化を余儀なくされ、同年4月「煙草専売法」(法律第14号)が公布、7月に施行されました。

専売制施行後、岩谷は現在の渋谷区猿楽町一帯に約13000坪の広大な敷地を購入し、豪壮な屋敷を構えます。そこで、「豚天狗」を名乗って養豚業などを行いながら、多くの家族とともに晩年を過ごし、大正9(1920)年3月10日、渋谷邸にて波乱に満ちた人生を閉じました。


■たばこと塩の博物館。特別展・企画展アーカイブ >
明治のたばこ王 岩谷松平よりすべて引用
by ogawakeiichi | 2009-04-23 07:06 | 鹿児島情報史
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