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ぼくの母方の先祖の墓は、高野山にある。といっても和歌山県の高野山にあるのではない。鹿児島県薩摩川内市にある真言宗・泰平寺ってお寺だ。地元の人には弘法大師さまの高野山といったほうが通りがよい。豊臣秀吉が薩摩攻めの際、薩摩方の大将・島津義弘の降伏にともない両者が和睦をした場所でもある。ここには、そのとき秀吉が座ったといわれている和睦石が残っている。その石を利用してちょっとした庭園があるのだが、それを造園したのがぼくの母方の祖父『門覚藤一郎』だ。ぼくは祖父からたいそう可愛がってもらった。造園の現場にもよく連れていってくれたものだ。墨絵も達者で、その絵はまるで写真のようだった。多分にぼくが今こうして、美術の周囲を彷徨しているのも祖父の遺伝子がしっかりとぼくのなかに存在しているからなのだろう。 幼い頃の『こうやざん』の響きはいつのまにか自然と耳の奥にインプットされていた。いつかは本物の高野山を尋ねてみようと思いながら時が過ぎるのは早い。気がつけば幼少のとき響いていた『こうやざん』から40年を過ぎていた。その上、和歌山県の山奥にある『こうやざん』は、「よっしゃ!」と思わないと、なかなか行けない場所だった。 昨年秋。一時帰国する北京から日本へ向かう飛行機のなかで、備え付けの機内誌にある日本地図をみていた。そのとき突然日本の原風景を巡る旅をしたくなっていた。今から思えば、人生のタイムオーバーまでの残り時間のことで心が騒いだのだろう。気がついたらさっそく実行。その一つに弘法大師こと空海の開いた高野山があったのだ。 ここからは、その幼少のとき響いていた『こうやざん』の開祖・空海について書く。彼は774年讃岐(香川県)多度郡、現在の善通寺のある辺りで誕生したといわれている。奈良から京都に都が移るのが、(794年なくようぐいす)平安京だから。平安遷都のちょうど20年前だ。幼名は佐伯真魚。佐伯家は代々地方を司る国司。讃岐においてもその子弟は地方の教育機関で学問をまなぶ。そんな訳だから、当然、彼もそこで学んだはずだ。少年時代の彼を育てる環境はあったかかった。 15歳で佐伯真魚(空海)は都(奈良)に出て、母方の舅(おじ)阿刀大足を訪ね、論語、孝経・史伝・文章等を学び、その後、大学(明経科)に入学する。 空海と同じ、讃岐出身、明経道の博士・岡田臣牛養から春秋左氏伝、毛詩、尚書等を学ぶ。 しかし、想像力にあふれた彼は、膨大な書物を暗誦するより、そこから跳ね上がった“宇宙”のほうへ関心が移っていった。 20歳を過ぎるころ、大学で学ぶことは過去の人の言葉の絞りかすのようなもので、何の役にもたたないと言い残し大学を去り、山林での修行に入る。 彼は、24歳で始めて著作した『三教指帰』(さんごうしいき)に、ここまでの心の変化を戯曲編集を用て、書いている。ザクッと言えば、処世術である儒学や道教を学んだところで、支配者の下僕として世間を支配する方法は理解きるんだけど、でも、なんら人間と宇宙を成らしめている法則などは語られていないじゃん。という内容だ。 当時、僧侶となるには、若くして寺に入って修行を積み課せられた試験を受け合格したものだけが朝廷から正式に認定されたのだが、空海の場合、山林修行に入ったといっても、正式な出家としてではなく私度僧(自称僧侶)であった。 仏教とは、そもそも自分の意識をどのようにコントロールするかという方法のことだ。暴れる意識、疼く意識、狡猾な意識をいったいどうすれば鎮めることができるのか。そのコントロールの方法によって仏教の各派に特色がある。 では、その意識がどこから発生したのかといえば、当時は脳のことなどわからなかった。プラトンは胆汁さえ思考の要因であると考えた。インドのヨーガでは体の各部にチャクラというものがあると考えた。 佐伯真魚としての空海が生まれ育ったころの日本の仏教は、奈良末期の混乱の中で、快楽や安心を求めるだけのものになっていた。、とうてい「意識の高次化」などを構想するようなプログラムもない。また、そんな修行をできる場所もない。若き空海が山林修行に賭けたのは、こういう理由からだった。 四国讃岐の「佐伯家」は、日本全国に係累をもつ“言霊の一族”である。すなわち「ことば」についてめっぽう強い一族に生まれた。その血を引いた佐伯真魚(空海)は、漢籍を読み尽くし、言語による多様な思索の才能を伸ばしていく。 山林修行してる中、「おまえが、そこまで仏法のことに熱心ならいい工夫を教えてやろう」と彼の前に現れたのが、“一沙門”と呼ばれる僧だった。その教えとはインドにつたわる『虚空蔵菩薩求聞持法』という記憶術である。 記憶力をつけるために『虚空蔵菩薩という』密教仏にすがり、その菩薩の真言を一定の方法でとなえる。(真言とは、人間の言語じゃなく原理化された存在(法身如来)たちがしゃべる言語。)虚空蔵菩薩というのは天地一切の現象の表象であり、人が現象の玄妙さに驚嘆を感じたときにだれの前にもこの菩薩はすがたをあらわすであろうと、インド人は考えていた。 佐伯真魚(空海)が、虚空蔵求聞持法による記憶術の修行をしたというのも、この言語編集力の基礎技術をつけるためだ。虚空蔵求聞持法とは、日光二荒山を拓いた勝道や吉野の比蘇寺で修行した神叡が妙法を得たという噂のキラーソフト。 作家・司馬遼太郎氏は、著書“空海の風景”のなかで、後世、空海とは別な方法で科学を知ったものが、この空海をあざけるのは容易だが、密教の断片において科学の機能を感じた空海と、後世が知ったつもりでいる科学と、はたしてどちらがほんものなのか。人間のたれもが、回答を出す資格をもたされていないとも書いている。 ぼくも、空海の歩みの中で一番興味をひかれるのが、この虚空蔵求聞持法の習得である。だって、これさえマスターすれば、すばらしい記憶力を得ることができるのだ。言い換えれば、記憶とは、自分の思想を構築する際の発想の蓄えをなすものであるから、記憶を思想と呼んでも良いくらいだ。道元はたしか、記憶を思想と呼んでいた。 「ナウ ボゥ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリボリ ソワカ」 (華鬘蓮華冠をかぶれる虚空蔵に帰命す)を百万回唱えつづける苦行だ。単純に計算してみた。一日一万回唱えると100日かかる。一回唱える秒数からざくっと計算して、一日約5,6時間だ。スーパー記憶術を達成するとしたらまぁ、がんばってやれないこともないか。いやいや・・ 土佐の室戸岬の洞窟で虚空蔵菩薩への祈りを唱え続けていた佐伯真魚(空海)の口に、ある日突然“光り”が飛び込む。その瞬間、世界のすべてが輝いて見えたらしい。一種の神秘体験を得た瞬間だ。 なんだか、コミックの劇画に似合いそうなシーン。 これから、遣唐使として入唐までの期間。 空海の空白の時間がつづく。。。 『司馬遼太郎・空海の風景。松岡正剛千夜千冊より引用あり』 by ogawakeiichi | 2006-03-23 17:11 | 日本史&思想
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