文化大革命とは1966年から1976年まで10年間にわたって吹き荒れた中国のプロレタリア社会文化運動のことである。といっても、わかりにくい。
文化大革命の時期、ぼくは11歳から21歳ということになる。中学生のころNHKのテレビで毛沢東語録を、ぼくと同じ年代の連中が熱狂的に振り上げている場面を何度かみた。
深夜放送を聞こうとラジオをチューニングしていると、北京からの日本語放送がものすごい音量で、聞こえてくる。出だしは、決まって「日本のみなさま、同志のみなさま、こちらは北京放送局です・・」で始まっていた。
中国ってなんでこんなに熱狂してるんだろうと、思っていた。
この熱狂が文化大革命で、毛沢東語録を振り上げていたのが紅衛兵だった。
この時期、中国は共産主義の真っ盛り。しかし内部のリーダーたちは、権力闘争の真っ最中だった。権力闘争の構図は「毛沢東・林彪」×「劉少奇・鄧小平」の対立だ。
ところが、その後は林彪によるの毛沢東暗殺指令が発覚し、さらに毛沢東婦人の江青らの4人組が台頭暗躍して、四分五裂のぐちゃぐちゃ状態になる。ぼくが、中国で10年仕事をしていて思うのだが、どーも、みなさん、いまでもぐちゃぐちゃがお好きなようだ。ちょっとはなしが逸れた。
1976年10月にこの江青を中心とする4人組が逮捕され、この中国全土を吹き荒れたしょう紅熱のような文革の嵐も収まった。最後に江青が“悪者”の代表ということになってしまった。
文革終焉の直接のきっかけは、江青逮捕の1ヶ月まえ、1976年9月に毛沢東が死んだからだ。毛沢東が生きているあいだは、だれもこの文革をとめられなかった。
それだけ、毛沢東にカリスマ性があったということだ。
4人組逮捕とその裁判のあと、文化大革命は「歴史議決」されて、全面的に失敗だったと否定された。10年のしょう紅熱だった。
これが、だいたいの大筋であるが、この文革の時期にはさまざまな動向が絡んでいた。
さて。このしょう紅熱は、どうやってはじまったのか。
1951年に毛沢東が、映画「武訓伝」を階級調和?をはかる軟弱なものだと批判したのが、ごく初期の文革(しょう紅熱)の兆しだった。
しかし、このとき毛沢東の唱えたすローガン「百家斉放・百家争鳴」は、誰もが自由な批評活動をしようという「文化の自由」スタートでもあった。
そのころ世界の共産主義2大国家であった、中国とソ連の関係が険悪になり始める。「継続革命論」という大きな共産主義社会のための大路線の解釈の違いだ。
互いに新たな方向を提示するところまで行っていた。
世界情勢と中国国内の権力闘争とが、微妙に絡み合う。
どんどん複雑になっていく文化大革命である。もつれた糸を解きほぐすようにゆっくりほぐしていこう。
下へつづく・・・