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彩遊記

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桂庵玄樹とは

桂庵玄樹とは_f0084105_1335153.jpg北京オリンピックが終わった。2年後には上海での万国博覧会が控えている。このふたつの大イベントのシンボルマークは、漢字をモチーフに筆を使って表現している。現物を見れば、ああ・・・、と一目瞭然なのだが、北京オリンピックは“北京”の「京」の字、上海万博は“世界”の「世」の字を巧みにあやつり、マークに仕立てている。

もともと漢字の始まりは神様との交感の記号だとされる。その祈りの記号は進化して、人々のコミュニケーション手段の漢字になり、漢字を記録するための筆、墨、紙が開発された。それに伴走するかのように書道や水墨画へと発展していく。

さて、話は変って水墨画のことだが、日本に中国から水墨画が入ってきたのは鎌倉から室町時代にかけてだ。禅僧によって禅文化とともに、どどっとやってきた。その代表的な禅僧の一人に「雪舟」がいる。室町時代を生きた日本水墨画のトップランナーだ。

雪舟といえば、知名度もあり、有名なエピソードもある『幼い日の雪舟は、絵を描くことばかりで経を読もうとしなかった。そこで寺の住職は雪舟を柱にしばりつけた。泣き叫ぶ雪舟。夕方、覗いてみると、雪舟の足もとに大きなネズミ。かまれては大変と、住職は追い払おうとするが、ネズミは逃げようとしない、それは雪舟が流した涙で床に描いたネズミだった。』という話。知っている人のほうが多いと思う。

その知名度の高い雪舟だが、彼とともに同じ船に乗り、中国大陸に渡った人物がいる。その人物の名は「桂庵玄樹」大陸へ渡り、当時の皇帝に拝謁し七年間滞在。朱子学を学んだ。それから百十数年後、朱子学は江戸幕府で取り入れられ、花開くことになる。

桂庵玄樹は長州(山口)で生まれた。大陸で、朱子学を学んだのち帰国。しかし当時は、応仁の乱の最中だった。戦乱を避け、各地を歴遊。その後、島津氏の要請を受けて薩摩で朱子学を講義する。日本最初の朱子学の書籍が薩摩から発信された。彼の教えは薩南学派という流れになり、日本朱子学の大河へとなっていく。

「江戸に先んじて、朱子学は薩摩で流行した。当時の薩摩は日本における学問の最先端だった。桂庵がいたからこそ、薩摩の学術の基盤がつくられた。明治維新を成し遂げた偉人たちもそこから生ま
れた」と、九州大学大学院の東英寿教授は述べておられる。薩摩で発刊された『大学章句』は、朱子学が江戸より先に薩摩で花開くエンジンになったのだ。実はこの「桂庵玄樹」だが、鹿児島市伊敷の桂庵公園に墓がある。校区にあたる伊敷小学校では「けいあんぜんじのあとどころ・・・」と校歌にも歌われている。

七月半ば、桂庵公園で「桂庵玄樹没後五百年祭」が開催された。知事や市長、島津家の方々。夕方には大臣までもが駆けつけた。雪舟が乗った遣明船の副使でもあった桂庵玄樹。もっと知名度があってもいい存在だ。
by ogawakeiichi | 2008-10-09 13:36 | 南日本新聞コラム
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