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彩遊記

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秦氏の研究事始

f0084105_1333527.jpg古代日本を知るためには、秦氏の存在が大きな鍵と鍵穴になる。

秦氏といえば、天皇家に寄り添うことで日本をデザインしてきた藤原家の本来である。

近衛文麿や熊本の殿様、細川氏へ、薩摩の島津氏も惟宗姓から秦氏へとつながる系図であり、本来の源を同じくする。もちろん人間の祖をたどれば、アフリカの一人の女性に辿りつくミトコンドリア・イブのことがあるがそんな15万年前ではなく飛鳥から奈良時代にかけての話だ。

日本のグランドデザインを語る上で、どうしてもまとめておかなければならなかった秦王国。そのシンボルである宇佐神宮を訪ねた。

宇佐神宮で祀る八幡神は、「八幡大菩薩」とも呼ばれ、伊勢神宮に次ぐ尊崇を受けた最高の国家鎮護神。またその一方では武士政権の最大の守護軍神でもある。現在も、全国に約二万四千という日本第二の分社を数える。ちなみに第一位は京都伏見稲荷大社を総社とする稲荷神社だ。

宇佐神宮の本殿には、一之御殿には応神天皇、二之御殿には比売(ひめ)大神、三之御殿には神功皇后が祀られ、一番偉いのは応神天皇ということになっている。ところが、実際本殿に行ってみると、その配置がおかしいことに気付く。本殿左から、応神天皇、比売大神、神功皇后の順番で並んでいる。常識的には、本殿に向かい合ったとき、一番格上のものが中央に配置されているはずである。また「二礼、四拍手、一礼」が宇佐神宮での拝礼だが、この拝礼作法があるのは全国で出雲大社と宇佐神宮だけである。






大宝2年(702年)の戸籍台帳によると豊前の人口9割以上が秦氏である。宇佐八幡宮、八幡信仰はここからはじまった。ちなみに、現在の大分県姓名ランキングを調べてみると、上位20名の中で、藤原などの○藤の姓が6名もいる。他県と比べてもダントツだ。

『隋書』倭人伝では、l608年、小野妹子は隋使・裴世清を伴い、帰国した。裴世清は、筑紫から瀬戸内海に入ったとき、中国人が住むという「秦王国」の存在を知らされる。「秦王国」とは、渡来帰化人の秦氏が多く住んだ豊前の地。秦氏は、秦の始皇帝の血を汲む氏族で朝鮮経由で日本に渡来したと自称していた。

秦氏の渡来は五世紀後半以降、数度にわたりあったとされている。秦氏は新羅系加羅人と思われる。六世紀半ばに加羅は新羅に吸収されるが、その前から加羅には新羅人が多く住んでいた。秦氏もそういう一族である。「辛国」のカラとは、秦氏の故地である「加羅」を指している。これらから宇佐神宮の八幡神は新羅からの外来神だったと想像できる。

源氏は自らを「新羅」の末裔と信じ守護神を鎌倉の鶴岡八幡宮においた。源氏の「白旗」が気になるところだ

秦氏は当初、香春岳山麓で銅を採掘していた。また宇佐にも秦氏の一族である辛島氏が入植。この香春岳近くの福岡県築上郡築上町にある矢幡八幡宮が宇佐八幡の元宮で、その新宮として辛島氏が宇佐神宮を建てたとされている。

秦氏は畑作、養蚕、機織、銅などの鉱山技術、鍛冶など、その当時の最先端技術を中国から新羅を経て日本に伝えた。そして、大和朝廷も銅の技術を持つ秦氏を山背(今の京都)の地に呼ぶ。そのなかの秦河勝は、山背国に太秦(秦氏の長)としてそこに本拠を構え、広隆寺を建て、聖徳太子に仕えたとされている。後
に聖武天皇が東大寺の大仏を作るときにも大活躍する。

しかし、663年に白村江の戦いのあと、やまとは急速に「日本」化がはじまり大神氏がこの宇佐神宮の宮司となる。それまでの宮司辛島氏は追われそうになる。

例の「道鏡を皇位に」と託宣したのは大神氏の巫女であり、和気清麻呂が宇佐に参宮し再度託宣を受け、託宣は覆るが、こちらは辛島氏の巫女が下したものだった。それらのいきさつから宇佐神宮内に権力闘争が起こっていたことが分かる。和気と言う地名もこの地、辛島郷の近くにあるように岡山の和気氏も秦氏の一族の可能性もある。そして、和気清麻呂は道鏡事件で「大隈」へ配流となったあと召還されるが、773年には何と豊前国司に就いて、大宮司は大神氏、少宮司は宇佐氏、禰宜・祝は辛島氏に世襲とした。その後、宇佐氏が大宮司職を継承し、さらに宇佐氏の支族である到津氏および宮成氏に渡り、現在は中津市の薦神社の宮司である池永氏が宮司に就任しているが、将来、到津氏に戻すようである。

秦氏の一部は、隼人の国大隈国にも移住した。527~528年筑紫野君磐井の反乱も隼人族であり、このときに福岡にいた大本の秦氏が応援したために、大隈に移住させられたとも考えられる。隼人は朝廷と何度も戦った。この移住先である大隈でも乱(720年)がおき、辛島氏は神軍として従軍して、同じ大隈の秦氏を負かした可能性があり、このため、この供養として「放生会」が行われている。

大隅国に移住した秦氏の一族は大隅八幡宮(鹿児島社)を708年に創建している。宇佐八幡宮が秦氏の一族から大神氏に移ったことで、秦氏が司祭する大隅八幡宮を「正八幡宮」と名乗った。大隅八幡宮香春新社や宇佐八幡宮造営も含め、八世紀初めの動きはただ事ではない。南九州での薩摩・大隅国設置=隼人征伐は、外来神であった八幡神をニッポン神化し、これを先兵とすることで遂行されたのである。もとより南方だけのことではなく、北方の蝦夷へも征伐軍は進んでいた。「日本」によるニッポンの制圧は政治・軍事面と並行
して、紀記神祇神道による各地の外来神および「国つ神」の鎮圧として遂行された。晩年に入り辣腕を振るう藤原不比等の執念の影を感じる。

大隅国府を中心に移住秦氏が多く住む地域の、西に大隅八幡宮、東に韓国宇豆峯社がある。あたかも豊前の香春社(ないし元宮)と宇佐八幡宮のように。韓国宇豆峯社と大隅八幡宮がセットになっている。「辛」ではなく「韓」の字が用いられているのは自らの出自を明示しようとする命名だろう。

平安時代に作られた今昔物語の中に最澄が、遣唐使として中国大陸に渡るための安全祈願と帰朝報告の2回、参拝した様子が書かれている.なんと我が敬愛する空海も参拝している。そのへんを見ていくとどうやら
遣唐使のスポンサーだったのではと、アブダクションできそうだ。


秦氏をやりはじめると、西はミトラから古代バビロニア、東は京都仏教から島津の殿様と、拡散していくので少しづつ文章化していきたい。

参考:引用サイト
▼宇佐八幡神は新羅の神だった
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by ogawakeiichi | 2008-08-31 13:58 | 歴史アブダクション
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