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彩遊記

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妙円寺詣り

旧暦9月14日、鹿児島県下で奇妙な行事が行われている。鹿児島市やその近郊の学校、各団体約2万人の人々が往き20キロ、帰り20キロの山道を含む旧薩摩街道を歩き続けるだけの行事だ。(※最近では歩く人も以前よりは少なくなり、帰りもJRを利用することがほとんどになってしまったが・・)

鹿児島市内の学校では、土日を使って15年近く前まで多くの学校単位で行われてきた。
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現在は、個人的信条など複雑な諸事情が絡み全校での参加は無くなったのだが、クラブや地区のあいご会単位でとぼとぼと歩きつづける。(※ぼくは剣道をやっていた縁で、中学時代は妙円寺奉納試合に選手として出場。当時は体力温存のため国鉄の汽車。。←当時は国鉄の汽車とよんだ。)
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その目指す先はどこなのかというと。かっての薩摩藩主、島津義弘の菩提寺、妙円寺(徳重神社。)地元ではこの行事を『妙円寺詣り』と呼んでいる。

島津義弘とは、天下分け目の合戦、関が原で、属する西軍の負け戦が濃くなった中、薩摩軍団を率いて、敵、東軍の真っ只中を突破して退いた人物だ。





慶長15年(1600年)9月15日、徳川家康率いる東軍と石田三成の西軍は小早川秀秋の寝返りで、西軍は大敗走。島津義弘率いる薩摩の軍団は西軍の負けが濃厚になり、ついに陣を守りきれず、島津軍1500人は退路を遮断され、敵中に孤立する。

義弘は切腹を覚悟するのだが、甥の島津豊久の説得を受けて翻意し、敗走する宇喜多隊や小西隊の残兵が島津隊内に入り込もうとするのを銃口を向けて追い払い、自軍の秩序を守る一方、前方の敵の大軍の中を突破するという離れ業をすることを決意。東軍めがけ、その真ん中を突破する。

このとき、島津軍は捨て奸(すてがまり)と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。このことは後、『島津の退け口』と言われるようになる。

三日三晩、あらゆる困難をのりこえ伊勢路から、紀伊半島の山々を越え、大坂城に人質になっていた夫人らを救い出し、堺から船行し日向、薩摩の地へたどり着いた。

生きて戻ったのは、島津軍1500名のうちわずか80数名。
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ちなみに、島津越えと呼ばれるこのルートではいわゆる忍びのモノ小林新六郎や甲賀衆に道案内されていた。

関ヶ原の戦いののち、40年の月日が経ち、当時生き延びた、八十余名のうち、そのコトを知るものは、ついに“山田昌巌”ただ一人になってしまった。

鹿児島の城下の若者たちは、当時の苦難を忘れるな、と八十キロの道のりを山田の住まいである県北の出水郷をたずね『島津の退け口』を記憶に残そうとした。

以来、義弘と縁のある伊集院へと場所を変えたが、『妙円寺詣り』は、関ヶ原の苦難を偲ぶ、大衆参加の記憶装置として現在も続いている。・・・とは言っても、ピクニック気分です。
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by ogawakeiichi | 2009-02-15 11:27 | 鹿児島情報史
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