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彩遊記

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パースの記号論

f0084105_722012.jpgデザインであれ、文学で数学であれなんであれ、われわれの世界は文字や言葉やシンボルや数字などの記号によって表現される。とくにデザイナーたるもの記号論はがっつりやっておきたいところだ。

ぼくの記号論へのアタックは、パースの前にソシュールのシニフィアン、シニフィエを齧って以来幾知れず。当たっては弾き返され、当たっては弾き変えされ。そんなことして数年が経過した。

まあ時間的余裕の中国生活だったからこそだが、この記号論、輪郭は見えてくるのだが、さあしゃべってごらんと言われても、ぼそぼそとしか言葉にならない。だから冗長な引用編集になるのだが、まずは、腑に落ちるまでなんどもトレースして、最後は語れるモノにしていくしかない。

今回は、我が師、松岡の千夜千冊、パースの記号論をオッカムしながら丸呑みしていくことにする。ここからいただく栄養素は以後、きっとジンジン体に染みわたり、思考推進エンジンの一部となっていくことだろう。

<引用参考・千夜千冊>
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哲学の中心の問題はすべからく「推論」の問題にあると喝破したのが、チャールズ・パースだった。パースほど「我思う故に我あり」というあまりにも有名な言葉を残し、近代哲学の祖とされるデカルトに反旗をひるがえした者はない。これがパースの出発点だ。ちなみにデカルトは(1)世界を全体として科学的(客観的)に見ることをした、(2)世界を客観的に見るところの主体である「われ」をはっきりつかみ、世界において「我」がいかなる生き方を選ぶかについて、単純かつ徹底した方針をたてた。

パースは「記号とはそれを知ることによってもっとほかの何かを知るためのもの」という見方をしていた。つまり、【どんな思考も編集的であることを示した】「直観など最初から自立していない」と言ってのけたのだ。すなわちすべての推論は、あたまの中に蓄積されたこれまでの【認知】が関係してくるということだ。

パースは、すべての認知と認識のプロセスが相互に連携的で、総じて連合的で、すこぶる関係的であること、すなわち【編集的である】ということに確信をもっていたのだった。このことをパースは思考における「シネキズム」(synechism 連続主義)ともよんだ。ちなみに認識とはある物事を知り、その本質・意義などを理解すること。認知とはある事柄をはっきりと認めること。

パースのすべての関心は、「推論」(inference)とは何ぞやと、推論の正体を見極めることにあった。

ごくかんたんにいうと、パースは推論という作用を大きく三つに分けた。
「演繹」「帰納」「仮説形成」である。







■演繹とは
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まず演繹という言葉の意味は 、 一般的な命題から特殊な命題を, また, 抽象的な命題から具体的な命題を, 経験に頼らないで,論理によって導くこと。

演繹法というのは演繹による推理の方法。代表的なものに三段論法がある。演繹的方法。演繹的推理。演繹というのは普通に数学の本に書いてあることで, 公理 (最初に決めた約束) があって, それに基づいて色々な性質を導くことである。

■帰納とは
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一方これの対義語である帰納とは、個々の観察された事例から, 一般に通ずるよう法則を導き出すこと。一般的にいって帰納は、あくまでも確率・確度といった蓋然性の導出に留まる。

演繹、帰納はこのあとまた取り上げる。

パースは、そのような帰納も演繹も実はアブダクションにもとづいているのではないかとみなした。つまり、すべてはアブダクションに始まり、アブダクションに包まれていると見た。なおアブダクションについて松岡は【推感編集】とすばらしい日本語の訳語を与えている。

さて、たとえば観察を言葉に置き換える。このような推論のプロセスでの思考は、先行した思考が後続する思考によって解釈されていく。すなわちその解釈のプロセスが『推論』だ。

このとき、さまざまな手立て、すなわち『思考記号』(thought sign)が使われる。そして、その思考記号によってさまざまな関係づけや連合がおこり、推論はそれらを適宜消化しながら進んでいく。よくみるとそのプロセスはあくまで関係的だ。それゆえパースの論理学はしばしば「関係の論理学」とよばれている。

パースはそのうえで、推論には感覚や知覚が必ず「注意」(attention)によって編成され、再編成されていくことに気がついた。編集工学ふうにいえば、推論では【注意のカーソルがたどるダイナミックな編集プロセスを観察する】という作業がおこっているということになる。

すなわち、推論の中身とは、【注意のカーソルの動向】が示してきた多焦点によって姿をあらわしてきた『解釈思想』(interpretant)だろうというふうに捉えた。

そのプロセスの途中のすべてにおいて、思考記号もさまざまに動いていると捉えた。だから安易な直観的思考によって推論が成立するなどということは、パースにとってはありえなかったのである。

このような推論のプロセスをおおざっぱに想定したとき、そのなかで思考が論証的に進む方法のほうに加担していったばあい、これを演繹的であるという。

よく知られているように、三段論法は最も有名な演繹的推論であるが、前提が誤っていたりすることも多く、演繹的であるから正しい帰結が得られるとはかぎらない。また、そこから新たな情報がもたらされるということも確定されない。

これに対して、帰納は個々の事実や経験から出発して、それらをふやしながら、集めながら、しだいに拡張的に進む推論である。「個別から一般へ」、これが帰納というものだ。演繹が論証的であるのなら、帰納は検証的なのだ。

■帰納法への関心
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パースはこの帰納法に強い関心を示した。そして帰納的検証は「似ているものをさがす」という方法をとるのだとみなした。帰納エンジンに類似性や近似性が入っている。それが新たな帰結を生み出していく。いや、新たな仮説の可能性を生み出していく。そう、みなしたのだ。

実際にも、科学史的な帰納法ではたいてい分類や法則が生み落とされるのだが、パースはそこに仮説の創成の糸口を見たわけである。ここはパースがすこぶる好意的に帰納を見ているところで、その見方にこそパースがアブダクション(仮説形成)を最も重視した特徴があらわれていく。アブダクションは【仮説の創発】なのである。アブダクションとは総合的な【推感編集】なのだ。
パースは後期においてはアブダクションを“総合的推論”というふうにもみなすようになった。

これは何を示唆しているかというと、【新しい認識はアブダクションによってこそもたらされるという可能性】を示したのである。 



■ソシュールの「差異を生むコードとメッセージの記号論」
■パースの「類似を生む解釈と仲介の記号学」
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記号論の世界では、パースと双璧をなすものにソシュールがいる。

ソシュール記号論(ソシュール言語学)についてごくごく単純に説明すると、その基本は二項間の対応がパラダイムになっているということにある。たとえばラングとパロール、コードとメッセージ、意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)、送り出すものと受け取られるもの‥‥。※わき道にそれるようで申し訳ないがパラダイム(paradigm)とは、ある時代や分野において支配的規範となる「物の見方や捉え方」のことです。狭義には科学分野の言葉で、天動説や地動説に見られるような「ある時代を牽引するような、規範的考え方」。

ソシュールはこれらのそれぞれ二項のあいだにさまざまな対応の行き違いやそれぞれの自立性があることから、その言語学や記号論の枝葉を広げていった。また言語や記号の本質に降りていった。一言でいえば、ソシュール記号論は「差異を生むコードとメッセージの記号論」なのである。
 
ところがパースの記号学は、そうではない。大胆に定義するのなら「類似を生む解釈と仲介の記号学」なのだ。

記号はコードそのものではなく(コードも含むが)、解釈内容も仮説候補そのものも、記号になりうるようになっている。いわばモードもテクストも、プロセスも仮説も記号なのである。いや物理的な指示作用だけでなく、図表的なものや図像的なものまでも記号と認めた。
 
すなわちパースは記号を一種類の作用にはしなかったのだ。では、どのようにしたかというと、まずは記号を「類似記号」、「指標記号」、「象徴記号」に分けた。類似記号がイコン、指標記号がインデックス、象徴記号がシンボルである。

(1)「イコン」(iconic sign 類似記号)は、その記号の性質がその対象の性質と類似しているものをいう。「これは富士山の絵だ」「これが新築のビルの青写真だ」「これは東京の地下鉄の路線図だ」「あのギャーギャーという声はうちの猫の鳴き声だろう」というばあいの、「絵」「青写真」「路線図」「ギャーギャーという鳴き声」がイコンにあたる。 したがってイコンには、当然ながら【メタファーや見立てや見本】も入る。メタファーや見立てを成立させる作用をもつものもイコンなのである。

そこでパースは、イコンをさらに3つに小分類して、類似記号には「イメージ」(images)、「図式」(diagrams)、「隠喩」(metaphors)があることを指摘した。
 
(2)「インデックス」(指標記号 indexical sign)は、その指示対象と特別な類似関係をもっていないにもかかわらず、その対象と物理的な対応関係をもつ記号のことをいう。たとえば、寒暖計は気温の高さを示すインデックスであり、ある化石はある地質年代のインデックスなのである。

風見鳥は風そのものとなんら類似関係をもたないけれど、いったん風向きをあらわすものとして認知されたとたん、風向きの代用記号として機能しつづけるインデックスになるわけだ。ドアをノックする音も来客という対象性をなんら示していないけれど、それが来客のインデックスになりうるわけなのである。

こうした見方からすると、編集工学的には【うまく参照系(reference)や見本帳(repertry)を作成しておくことが、推論にとってはきわめて有効】であることが見えてくる。

(3)「シンボル」(象徴記号 symbolic sign)は、観念や習慣が結びつきを作りだした記号性である。それ自身が類であって個物ではない記号性である。ピラミッドはクフ王らの、鏡餅は正月の、鯉のぼりは五月の節句の、シャネルのマークはココ・シャネルの、それぞれシンボルである。

アブダクションがこれらの3つの記号性をもって駆動しているという光景を描いたパースは、次に、これらの作用がどのような場面で活動しているかという観察にとりかかった。
 
イコン、インデックス、シンボルがどのような場面で活動しているかというと、「名辞」(rheme,term)、「命題」(dicisign,proposition)、「論証」(delome,argument)において活動する。これをパースは推論の場面における第一次性、第二次性、第三次性というふうにもとらえた。

「名辞」が記号的言明の第一次的であるだろうということは、どんな記号論者も疑わない。けれどもだからといって、名辞によって何かが確定することはめったにない。

「命題」は推論における問題様式を整えたところにやってくる。しかしこれまた、やってくるだけであって、その言明を完了するわけではない。それは未発展の推論の状態なのだ。すなわち「命題はその主語とよばれる指示対象を明確に指定するが、その解釈内容はそのままにしておく記号」なのである。
 
そこでパースは、この中途半端な命題状態を二つの方向に分けた。

ひとつは経験的な知識を広げていこうとする「拡張命題」(ampricative proposition)、もうひとつは“AはAである”こと決定づけたくて進む「解明命題」(expricative proposition)だ。

この区分けはとくに新しくはないのだが、ぼくはこの「解明命題」にパースが「写し」を含ませたことに驚いた。「~は~である」には「写し」(replica)の推論が含まれていると喝破したのだ。
「論証」は記号的思考の第三次性をあらわす場面である。パースはこの段階でやっとアブダクションがその真の姿をあらわすと考えた。

このような視点に立って論証の推論的様式を整理すると、パースの言うアブダクションをともなう論証が、おおむね次の5段階になっていることを窺うことができる。

(1)前提(premisses)
(2)指導性(leading priciple)
(3)言辞合成(colligation)
(4)関係包含(involvement)
(5)結論(conclusion)
 

なかで仮説的言辞を見くらべて「合成」するところ、前提と結論の相互作用に推論が動いているところが、きわめてアブダクションの特徴を発揮する。

これがパース記号学の要約である。アイコン、インデックス、シンボルが、前提・指導性・言辞合成・関係包含・結論に向かって順逆いずれにも動きながら、名辞や命題を、演繹や帰納をゆさぶっている。それが仮説形成プロセスとしてのアブダクションなのである。

パースが示したかったことは明白だ。すべての記号的思考こそが知的活動の総体であり、そのプロセスを観察できさえすれば、デカルトのような「疑念」や「自我」を持ち出さずとも、どんな合理的な推論も可能になるということなのだ。

もっと端的に結論づけてもいい。パースにとっては【意識とは推論そのものなのである】と。

われわれはすべからく【アナロジカル・シンキングをしている動物】であって、どんなときもつねに【メタファーをさがしている存在者】なのである。<引用参考・千夜千冊>
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by ogawakeiichi | 2009-02-16 07:18 | 情報とデザイン
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