ブログトップ

彩遊記

ogawakeiic.exblog.jp

円相の芸術工学

f0084105_622948.jpg円相は円と相の二文字から成り立っています。一本の線で描き出される一つのマルが物理学や天文学の世界では広く深い意味を指し示ます。生物学においても、工学、美学や仏教の世界でも一つの円はいろいろなカタチの象徴としてわれわれに働きかけてくれます。

真っ白い紙の上に一本の線でぐるっと円を描いてみるとしましょう。紙においたペンが紙の上を走りだし、一回りして最初の位置に戻った瞬間、その瞬間に線は円になり、紙面の上に浮かび上がる円盤のように感覚されてくることに気づきませんか。これが心理学で言うところの「地」と「図」です。人間の視覚には、囲まれた部分が燦然と浮かび上がって輝きだす認知のシステムが仕組まれているのです。

この円を一つの穴としてみたらおもしろいことが起こりますよ。つまり、虚の空間が出現する。をやっているとき、この円をじっと凝視してみると時々ちがった感覚に襲われる。まるで壺の内部、もうひとつのおくの別の世界につながっているような気分になってきます。

永平寺別院で毎朝の参禅をはじめて3ヶ月目のことでした。壁にたまたまついていた小さなまあるいシミをじ~っと見ていました。ところがある瞬間を境に、突然向こう側へ通じる入口に見えてきました。その穴へはいりこんで向こう側へちょっこら行けるような感覚です。そのときトライしていたら、向こう側へ行って帰ってこなかったかも知れません。リアルにそんな感覚です。(※禅の世界ではこのあたりのことを“魔境にはいる”と言います。ガタガタ語る無かれ、とっとと通過しろといわれます。だからここまで。)





つまり一つの円は、実体であったものから虚の円へ、もうひとつの世界を暗示するメタファジックな円へとなっていきます。中国山水画の世界では風景の中に入るということが言われます。幸田露伴の「幻談」にでてくる絵描きの話がおもしろい。山の中のお寺を訪ねて行き、雨の夜にそこで舟の絵を描く。絵ができるとその舟に乗り込んで、川の流れとともにいなくなるという話です。つまりこちら側の人が向こう側の人になるはなしです。

数学の授業で虚数がでてきたときから、なにがなんだかさっぱりわからず数学の世界から脱落していったのですが、いまになってみれば虚数のへの入口は〇の穴だったのではないかと思うのです。どうもぼくは身体性を伴わないと腑に落ちないみたいですね。あ~あ、高校生のとき座禅と出合っておれば虚数が腑に落ちたのに・・

実体をもたない虚の円相は、「タマ」「タマシイ」などと結びつく心のなかの円相でもあります。これらは主に東洋の思想・宗教で重視され禅僧が描く「円相図」となり「タマシイの円相」は、密教で描かれる「マンダラ」にその本質が示されています。また東西を問わず神や仏の光背は円光です。そこにはオーラや気の発想が生まれ、道教の太極図まで一環して見渡すことができます。

円相はビッグバンから素粒子の動き、卵のカタチ、花火のひろがり、無限の自然界には、いたるところに円や球体、螺旋として散在します。

そしてまた、飛び交う情報も自己言及的な生命が、それ自身の認知機能を真似しようとして見出してしまった円環性でもあります。この円環は社会秩序としても存在しているのです。
[PR]
by ogawakeiichi | 2009-02-24 06:30 | アジア史&思想
<< 山水思想Ⅰ 碧巌録 >>