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彩遊記

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山水思想Ⅰ

f0084105_846768.jpg鹿児島おはら節に、“♪あめも降らんのに草牟田川~にごる、伊敷、原良のおはらはあ~♪”と謡われた伊敷に桂庵玄樹の墓がある。伊敷は現在ぼくが暮す町でもある。昨年の夏、桂庵玄樹の没後500年祭が開かれた。その桂庵が副使として乗り込んだ遣明船に日本山水のトップランナー雪舟も乗船していた。2年後、雪舟は明より帰国、日本の水墨、山水画の幕が切って落とされることになる。

横山操はいのちの終息の間際に「日本の山水を完成させないで死ぬのは無念だ。ぼくはもう一度、雪舟から等伯への道程をたどってみたかった」と加山又造に告げたという。
  
  
  一滴の墨は、水量を増せば増すほど、洋々たる大河を暗示する。 
  独特をもって、この大河を断ち切るとき、墨水は、紙背をとおって地底に落ちていく。
  水墨は作家の精神を、ぎりぎりにまで追い込んで、心的表現へと導く。
  水墨は他を信じない。                       <横山操>

横山は水墨を徹底することが「民族的なもの」であるとみなし、そのことがそのまま「世界的であること」につながると考えた。そして、その方法は水墨を徹底することで見えてくるはずだと独断した。「水墨であること」と「山水であること」と、そして「日本であること」を直結したかったのである。横山は「独断する水墨」としか言わなかったけれど、岡倉天心にはじまる日本画の奥にある本来の墨と筆の領域に向かっていった。そこをさらに遡ると中国の水墨の光景がまっている。





中世とはわれわれの血に流れる物語があらかた形成された時期である。日本文化的なるものはほぼ室町時代に形成された。中世はコトをモノにした時代だった。方法が文化になった時代だった。横山は晩年そのことに気がついた。アーネスト・サトウや岡倉天心は一挙にそこまで戻れなかった。

水墨画は禅僧とともにどっと日本へやってきた。それを手すさびにまねる画僧が、明兆や如拙や周文であるがそれら初期水墨はすべて禅林から育っていった。可翁や如拙の禅画にははやくも中国にない余白の美学が顔をのぞかせている。中国では評価されない牧谿(もつけい)をしきりに「和尚」とよんで絶賛した。牧谿(もつけい)に「和」を感じたのだ。

ぼくは、中国と日本の水墨に向かう数寄の間隙を、“守の模倣の徹底した中国ー折衷モダンに走りたがる日本”の違いではないかと思っている。

日本の水墨は明兆から如拙・周文・雪舟へと本格派が目白押しになっていき、そのあいだに能阿弥・芸阿弥・相阿弥の三代が入ってくる。このどこかで「中国離れ」をおこしていく。

鈴木大拙はワビ、サビすれも禅から派生してきていることを指摘した。<能禅一如>や<茶禅一如>という言葉が、まさしく示しているように、禅をひろげて確立されたのだ。そこには「中国離れ」ということがおこっている。日本においては禅は禅よりひろくなったのだ。

雪舟も明に水墨画をまなびに行ったのに、かえって雪舟がかいた「四季山水図」が中国側の評判をうけた。いまの東博にある「四季山水図」である。松岡は雪舟からアジアと日本が分かれて行ったと推理する。

山水というもの、山水画というものは、そもそも「胸中の山水」とくに禅においては、道元の山水経がそうなのだが、「見る・見られる・の・関係」にある。山水はそこにあって、また自身の内なる山水でもあり胸中に深く刻まれた山水は、いつもそこにある山水というものになる。

中国には「山水臥遊(さんすいがゆう)」とか「雲遊山水(うんゆうさんすい)」という考え方が生まれこれが「胸中の山水」というものに発芽していく。中国の山水は老荘思想、風水、タオイズム、陶淵明らの山水詩人、書道との関連、浄土や桃源郷への憧れ、異民族の侵入、そのほかさまざまなものが多様に折り重なってきたものである。したがって、山水画はかならずしも実景から生まれたわけではなかった。

このような山水観念の成り立ちと流れは、対象物にたいして静かな詩をよみ、写生をしつつも山水を胸中に入蔵させていった。禅僧であった雪舟にしてみれば、山水は「修禅の山水」あるいは「画禅の山水」であった。松岡はそれを「公案山水」とよぶ。

雪舟67歳、そろそろ自分の来し方をまとめたかったのだろう。こうして雪舟は「山水長巻」の制作に入り「胸中の山水」を吐露する。「山水長巻」は現在、山口県の防府にある毛利博物館に所蔵され、毎11月に公開されている。 ...
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by ogawakeiichi | 2009-02-25 09:00 | アジア史&思想
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