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彩遊記

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2.26事件

63年前の今日のできごとである。昭和11年2月26日早朝、東京一帯は前夜から降り続いた雪がさらに激しさを増し寒さも一段と強くなっていた。突然、軍靴と銃声の轟きが市民の眠りを破った。朝5時を期して、歩兵第一連隊・第三連隊・近衛歩兵第三連隊など1400名にのぼる陸軍部隊が反乱決起したのである。世に言う『2・26事件』が起こった。
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叛乱軍の首謀者の一人とされた磯部浅一は2・26事件の直後銃殺に処される前に、こう呻吟していた。「日本には天皇陛下はおられるのか。おられないのか。私にはこの疑問がどうしても解けません」

この言葉が、ある時から気になってしょうがない、あたまから離れないでいた。皇道派といわれた磯部らになぜ天皇は激怒したのであろうか。それともぼくが皇道派という名称に引きずらているのだろうか。現在午前3時。63年前、緊張高まる帝都において昭和の捩れが加速していく時間に縺れた磯部と天皇と日本を解きほぐしてみたい。





松岡の千夜千冊では、皇道派の青年将校と天皇との関係をこう書く
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青年将校たちにとっては、天皇を悪用する「君側の奸」を除去することがクーデターだったのである。 しかしながらいくら天皇の権威に群がる「君側の奸」を打ち払っても、 天皇は姿をあ らわさなかった.それどころか、天皇は将校決起に激怒した。天皇は青年将校のテロリズムを憎んだだけではなかった。自分を騙る者に激怒した。おまけに、天皇の怒りは青年将校の向こう側には届いていない。皇道派の青年将校たちに対して、いわゆる統制派とよばれた幕僚将校たちこそ、天皇中心の“錦
旗革命”を標榜しつつ、実は天皇の“大御心”を信じてもいないくせに騙ろうとしていたはずなのである。しかし、天皇は統制派には文句をつけなかった。
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昭和天皇は皇道派より統制派よりだったのか、皇道派という名称は天皇を担ぎだすだけの方法だったのだろうか。天皇についての考え方は明治維新以来、二つの天皇論がある。

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日本には幕末維新を通して、互いに異なる二つの天皇論が並列処理されてきた。ひとつは吉田松陰に代表される精神派(社禝派)で、民族民権の根拠として天皇を中心とした組み立てをしたいと希う考え方である。もうひとつは横井小楠に代表される合理派(近代派)で、天皇を制限君主として立憲君主制のもとに近代国家を組み立てたいという考え方だ。この二つは、明治維新では表向きだけで合流したにすぎなかったのに、自由民権運動 をへて帝国憲法にいたる過程では、天皇を精神的にも合理的にも活用するという両義的体制の確立に向かっていった。大久保利通や伊藤博文はあきらかにこのことを知って、明治立憲君主の体制を整えた。そこに大きな二枚舌が動いた。大久保・伊藤は、天皇が政府・軍部のトップにとっては単なる天皇機関説のシンボルにすぎないことは常識でありながら、
これを公言することは絶対にしてはならぬものと戒めていた(いわば密教的天皇論)。一方、政府や軍部の下部組織や国民に対しては、天皇が絶対服従をもたらす崇敬の対象でなければならないことは 絶対公言によって伝わるべきものだと考えた(いわば顕教的天皇論)。
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密教的天皇論と顕教的天皇論である。皇道派は顕教的天皇論をとった。ところが、そこに立ち現れたのが北一輝だったのである。北はその鋭い洞察力をもって、密教的天皇論を“合理”として、“近代”として、見抜いてしまったのだ。皇道派の青年将校は、最初から最後まで顕教的天皇論の中にいた。皇道派の構想の拠り所となったのは北一輝の『日本改造法案大綱』(1919年刊)である

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『日本改造法案大綱』は、2・26事件の青年将校たちの聖典となったものである。内容は驚くべきもので、天皇の大権による戒厳令の執行によって憲法を3年にわたって停止し、議会を解散しているあいだに臨時政府を発動させる。その3年のあいだに、私有財産の制限、銀行・貿易・工業の国家管理への移行を実現し、さらには皇室財産を国家に下付して華族制なども廃止してしまおうという計画になっている。しかし最大の問題は、天皇に革命を迫るという主旨で、青年将校はその大胆不敵なヴィジョンにこそ酔ったわけではあるが、これこそまったく逆の結果を招いた。北一輝の天皇に関し中学時代の作文には、はやくも尊皇心もあらわれている。尊皇心はあるのだが、天皇自身のあり方については、すでに一風変わった見方をしていた。「天皇は進化するものでなければならない」というものだ。これには天皇と個人がどこかで連動しているとなると、個人が「超人」や「唯一者」をめざしているときは、天皇や君主にもそうなってほしい。「天皇の進化」という言葉には、こうしたニュアンスがこめられていた。
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皇道派とは、「君側の奸」を討ち、「国体を明徴」にし、「天皇親政」を実現すべしという思想が引き出され、天皇を尊ぶだけではなく天皇自身にも進化を求めるものでもある。天皇が皇道派決起に激怒したのは尊皇で煽られる嫌悪感ととともに皇道派の背景にある「天皇は進化するものでなければならない」とする北一輝の思想に対する嫌悪があったのかもしれない。
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ここで、国防研究会図書室より引用オッカム編集して226の背景を記しておく。
 
ドイツのミュンヘンの西南のボーデン湖の近くに「バーデンの森」というところがある。この森の中にバーデンバーデンという温泉郷があり、ここに大正十年十月二十七日、三人の日本人が宿をとった。 その3人とはスイス駐在武官 永田鉄山少佐、ソ連駐在を命じられしばらくベルリンに足を止めている小畑敏四郎少佐、慰労休暇を含み欧州に派遣された 岡村寧次少佐三人とも37,8歳、男真っ盛りの少壮中堅将校である。彼らは陸軍士官学校の第十六期生で、無類の仲良しである。とくに永田と小畑は陸大も同期、ともに優等卒の英才である。

この集まりの発案者は岡村で、一言で言えば 「現状打破はいかにすれば可能か」を話し合うためである。ベルリンで岡村に会い、この提案を聞き、人一倍血の気の多い小畑はたちまち賛成し、それならスイスにいる永田も呼ぼうということになった。徒党を組むよりも自力独行をモットーとする永田は、はじめ承知しなかったが、小畑の押しと岡村の説得に負けてバーデンバーデンにやってきたのである

忍び寄るソビエト共産主義国家の巨大な影、大戦の結果大きく勢力圏の変わった列強。これは永田のみならず3人に共通した世界情勢認識でもあった。こうした内外ともに切迫した状況下にありながら、陸軍首脳はのうのうと日露戦争勝利の夢をむさぼっていた。彼らは日露戦争に出征した戦場の殊勲ではあるが、金鵄勲章とかの精神的誇りにのみ生き、急激に変転しつつある情勢に対応しようとする意欲を失っているのではないかと、3人の意見は一致した。

また、3人が陸士十六期の卒業生というところに大きな意味がある。日露戦争の実戦に参加できたのは第十五期の卒業生までであって、彼ら第十六期生は明治37年10月卒業、ごく一部を除いては弾丸の下をくぐらず、せいぜい後方勤務がいいところ。つまり軍内部における戦後派である。そこに焦りがあるとともに、彼らの団結を堅く結びつける要因もあったのだ。

そしてこの会合は『バーデンバーデンの密約』と呼ばれ、ここから昭和の陸軍史がスタートしたのである。この話し合いで、①派閥の解消→人事刷新 ②軍政改革→総動員態勢確立が俎上にあがる。

そして、研究会を名目として「二葉会」がつくられた。これは第十五、十六、十七期から集まった人材で構成されている。 おもな人物に河本大作 、土肥原賢二 、東条英機 、板垣征四郎 。昭和に入って、永田・小畑に続こうと、さらに第十八期以下の志しある俊英が「一夕会」というグループを作った。おもな人物に山下奉文 武藤章 石原莞爾 。

こうしてしばしば会合し、彼らが論じ合ったのは何であったろうか。張作霖を殺したが、満州は張学良によっていぜん統治され、蒋介石の国民党の勢力とソ連の圧力とが南北から堰を切って浸透してきている。このまま座視していれば、せっかく日露の戦いに勝ち、満州の広野に得た権益は無になるかもしれない。明治天皇の皇謨は一片の昔語りとなろう。もはや一人や二人の首脳を殺しても詮ないこと。満州を軍事的に占領しない限り、真の高度国防国家建設の目的は達成されないのではないか・・・・。そうした政略論であったと推察される。

時は経ち、軍の上層にいた明治維新以来の薩長勢力も一掃された。既に目的を達し、必然的に地位も上がり軍中央に進むとなれば、それぞれがより高位の将来を目指して行動せねばならなくなる。このあたりからかつての盟友が最大のライバルとなっていく。

「バーデンバーデンの密約」から既に10年が経っている。永田も小畑も将官への栄進は目の前である。その昭和六年暮、荒木貞夫中将が教育総監本部長から犬養内閣の陸相に就任ときから二人の仲は一挙に悪化しはじめる。

言うまでもなく、統制派=永田一派。皇道派=小畑一派(荒木・真崎)という対立図式である。そしてそれは人事の争奪を含めて陸軍中央の権力争いと説かれる。

2・26事件で命拾いした首相岡田啓介はのちにこう述べている。「なぁに、皇道派とか統制派とか、やかましいことをいっても、本当は陸軍の膨大な機密費の取り合いさ。その頃の陸軍の機密費は百万円、海軍は二十万円くらいだったかな。その機密費をどちらが握るかという派閥の争いだよ」

この永田と小畑の対立は単に権力争いだけであろうか。否。それだけではあまりに浅はかな歴史認識となってしまう。彼らの対立には国防の政策上の大問題、すなわち対ソに関する意見の対立があったのだ。小幡は対ソビエト重視、永田は中国を叩いてからソビエトと対峙するというものであった。

十一月、皇道派の村中孝次大尉・磯部浅一大尉らが突如として検挙された。士官学校事件である。理由は、第六十六臨時議会(昭和9年11月28日~12月9日)の開会中に村中・磯部らが首謀者となり、西田税ら民間右翼も加え、元老・重臣及び警視庁を襲いクーデターを決行しようとした容疑である。検挙に当たったのが統制派の主要メンバーであったため、争議となった。統制派の辻政信大尉が士官学校教官として赴任し、佐藤勝郎士官候補生から村中らのクーデター計画についての情報を得たのが事の発端であった。

統制派は、昭和十年八月の定期人事異動を機に、皇道派を陸軍首脳部から追い払おうと図った。この事件で皇道派が軍中央部における行動基盤を完全に失い、村中・磯部らはクーデター計画に熱中するようになる。2・26事件の大いなる伏線と言えるだろう。そして彼らは”真相究明”を名目に各種の怪文書を流した。

怪文書は直ちに陰惨な効果をあらわにした。八月十三日、永田軍務局長が陸軍省の自室で憲兵隊長の報告をきいていると、皇道派の相沢三郎中佐がドアを蹴破り、「天誅!」と叫びながら斬りかかってきた。永田は病院へ運ばれたが間もなく絶命した。相沢は青年将校らと親しく、真崎の更迭に憤っていた矢先、村中らの怪文書を見せられ、永田の暗殺を決意したものである。

そしてこの事件ははからずも皇道派のメンバーの体質を露呈した。相沢は感情家で激しやすい男で、怪文書やデマをことごとく信じ、憤激すると手段を選ばず、問答無用の行為に出た。しかもその信念は神懸かり的であり、軍法会議においても「自分の行為は伊勢神宮のお告げに従ったもので犯罪ではない」と主張するありさまであった。

このことと関連して、皇道派はあいつぐ恐慌のあと農民が極めて悲惨な生活をおくっていることに強い関心を払っていた。といっても彼らはあくまで「志士」であり、農民に代わって行動するエリートに過ぎず、農民の悲惨さは彼らのクーデターを合理化する口実に使われるに過ぎなかったという意見もある。。

皇道派が「陸軍全体を維新的に結成一体化し、軍を維新の中核に向かって推進する」ということは既に述べてきたが、彼らはどんな国家を造ろうとしてたのか。

それは「各種の国家問題、社会事象を捕捉し、是を維新的に解決し、国内情勢を促進し、維新発程即ち大号令の渙発を容易ならしむ」というもので、つまり天皇親政の名のもとに、国家改造を強行するということ。その方法としては「武力行使は国体反逆行為を討滅し、大義名分を樹立するを要すべき場合に断行することあるを予期し、平素は武力的迫力によって情勢を誘導推進す」と、テロ・クーデターを堂々と公言していた。この構想の拠り所となったのは北一輝の『日本改造法案大綱』(1919年刊)である。

北は日本社会が諸矛盾に悩まされているのは、財閥・政党・軍閥・官僚、とくに元老重臣が私利私欲を肥やしているためで、これらの矛盾を解決し、日本を世界に冠たる強国にしようとすればこれら諸勢力を粉砕し、一君万民の境地を実現するほかないという。それは天皇親政、私有財産の制限、軍による社会生活の隅々に渡るまでの統制を特質とする社会である。

統制派にはある思惑もあった。統制派はただやみくもに行動に走ろうとする皇道派の利用法を心得ていた。
すなわち、「軍部自らは非合法手段たる直接行為は行使せず」、右翼又は青年将校が「政治的非常事件」(クーデター)を起こしたならば、それを利用して軍部の手で国家改造を行うことが構想されたのである。

その要をなすのは「異変の渦中に一部の軍隊参加する場合」に「速やかに戒厳令を令す」ということである。戒厳令の下で、事態収拾に名をかりて総力戦体制を作り上げようというのである。

いよいよ情勢逼迫とみた憲兵隊本部は、全国から300名の応援憲兵を東京に召集、東京憲兵隊の兵力と合わせて警備する「非常警備計画案」を策定し、坂本俊馬東京憲兵隊長から憲兵司令官へ上申した。しかし司令官は病欠で代理の憲兵司令部総務部々長は「陸軍省が反対だ」という理由で、この案を握りつぶしてしまった。そう、陸軍省を占めているのは統制派なのだ。統制派は事件を待っていた・・・。

二五日夜半から東京では30年ぶりという大雪が降り出していた。そんな中、歩兵第一連隊の栗原の下に、続々と雄志が集まってきた。彼らは◆栗原機関銃隊:村中・磯部・山本又ら◆湯川原襲撃隊:水上源一・宇治野時参・宮田晃・中島清治・黒沢鶴一らなどである。

「・・・国民大衆が今どれだけ苦しんでいるか、お前達の家庭を顧みればわかるだろう。満州や北支の前線では姉や妹達がその身を売らなければその日の糧を口に出来ない状態だ。天皇陛下はこんな国民の惨状を決してお望みではない。陛下を取り巻く特権階級の連中が国民の本当の姿を見せまいとしているんだ。・・・」
合言葉は『尊皇討奸!!!』ここに明治以来最大の内乱が開始された

総理大臣官邸襲撃
斉藤実内大臣私邸襲撃
渡辺錠太郎陸軍教育総監私邸襲撃
高橋是清大蔵大臣私邸襲撃
鈴木貫太郎侍従長官邸襲撃
牧野伸顕前内大臣別邸湯河原伊藤屋旅館襲撃
警視庁襲撃、他 ・・・・・・

国防研究会図書室より引用オッカム編集。
 
by ogawakeiichi | 2009-02-26 08:36 | 歴史アブダクション
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