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彩遊記

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かたち

f0084105_5153974.jpgあるきっかけから東アジアの「かたち」を調べることになった。ぼくにとって、十年ちかく彷徨している東アジアにかかわれることは、やぶさかではない。古代九州の「かたち」を調べ、東アジアの源流へさかのぼってゆくことになる。
 
まずは神社やお寺の建築、祭りの道具、それらに見られるデザインや図像を集め、分類し、共通のモノ・コトを見つけ出し、物語に織り込んでいく。
 
アジアの「かたち」を追った先輩にぼくの大好きな杉浦康平さんがいる。杉浦さんは「かたち」を「かた」と「ち」にわけた。古代から日本人は自然に潜む霊的な力、目にみえない生命力の働きを「ち」と名づけ、「かた」に「ち」が吹き込まれ、「いのち」あふれる「かたち」が誕生するとみた。
 
東アジアと古代九州には、なんらかの関係の「ムスビ目」がある。九州という名称は明治以前に九国があったことに由来する。九州という漢字は、中国語では古代このかた中国そのものを示す別名でもある。この偶然さえも、なんとなく因縁的だ。
 
東アジアと古代九州の「ムスビ目」を探しに、気になっていた大分の宇佐八幡に行く。鹿児島神宮や、新田八幡、荒田八幡など「八幡さま」を奉る総本宮が宇佐八幡である。調べてみると、宇佐八幡には「秦(はた)氏」が深くかかわっている。




「秦氏」は大陸や朝鮮半島から渡来してきた。「ハタ織り」をはじめとするさまざまな技術を持ち込んだ。中国の「随書」によると宇佐周辺に秦氏の「秦王国」があったことが記されている。

そうすると、「八幡さま」は外からやってきた神様かもしれない。宇佐神宮の社殿に響く太鼓の音は、太鼓の「かた」に音色の「ち」がめぐるアジアの鼓動なのかもしれない。

古代九州には豪族たちの小さな国々が存在した。小さな国々は大陸からきた文化をうまく溶け込ませ、多様な「かたち」につくりかえ、瀬戸内海をぬけ、大和へと伝わった。稲作、鉄、陶器、お茶、鉄砲も東シナの海から九州を経て全国へと広がった。

朝鮮半島が「百済」や「新羅」の時代、想像をはるかに超えて人々の往来がある。七世紀初頭、「白村江の海戦」では、朝鮮半島の「百済」が海峡を隔てた「倭」に援軍を求めている。豪族連合体であった「倭」は敗れ、ほうほうのていで逃げ帰り一致団結。それが「日本」となっていく。

中世以降も、倭寇、明治維新、朝鮮半島と大陸の動乱、二つの大戦と、良きも悪きも、どれをとっても九州が、歴史の「ムスビ目」となった。

東アジアの「かたち」をしらべることからはじまった九州史の探訪は、キワにおかれた九州が、歴史の端境期にはかならず顔をのぞかせていたことに気づかせてくれた。

九州は日本史の鍵と鍵穴をもっている。 瀬戸ギワの日本に、キワ九州再登場の予感がする。
その中でも、キワのキワ鹿児島は相転移のエネルギーで日本をキワだたせるなにかをもつ場所でもある。


謝謝大家

Special Thanks.y.nacano
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by ogawakeiichi | 2009-03-02 05:09 | 南日本新聞コラム
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