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彩遊記

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表の体育・裏の体育

f0084105_16551312.jpg西洋の科学思想による医学、栄養学をもとにした現在の学校体育を「表の体育」とするなら、日本の伝統文化を核に個人が直感と体験によって打ちたてた民間の健康法、鍛錬法は「裏の体育」である。日本の近代化と古来の伝承とのハザマに生まれた身体観・鍛錬法だ。

ぼくは、二十五歳前後に、インドを1年近く旅をした。それ以来、精神と肉体の関係には並々ならぬセンサーが反応するのだが、思いおこせば、アジアの身体観や鍛錬法は宗教と不可分のものが多かった。

表の体育におさまりきれない細分化さりえないものが裏の体育では、理科系も文科系もひっくるめ、全科的傾向が必然的である。それは日常の生活方法から、ものの考え方、思想、時には宗教的問題にまで関わる広がりを持ってくることだ。

裏の体育にはド演歌とも言うべき幕末の加持祈祷や気合術、さらに明治の日本に輸入された催眠術をこれらと融合させた「霊術」と呼ばれるものまで含まれてくる。霊術とは、国(体制)が認めない人生諸問題の解決法でもある。昔日には高野聖など真言系の漂白僧や修行者などのいわば、古典的霊術家が村々で治療活動を行った。霊術および霊術家という言葉は、今日ほとんど使われることはない。しかし、戦前この言葉は今日のヨガや太極拳ほどに知れわたっていた言葉だったようだ。






◎裏の体育で最も重要な「丹田」
日本の禅は、宗教というより哲学扱いで、現代社会の常識と最も折り合いがいい。だが、この禅(臨済禅)も衰えかけた時があり、その再興の際には、古典的霊術である神仙術の世話になっている。

江戸時代中期、衰えかけていた臨済禅に新風を吹き込み、500年に一人の名僧とうたわれたのが白隠慧鶴である。それまでの禅門にはなかった健康法を「夜船閑話」などの著作を通じて普及したことも見逃せない。

この白隠の内観法という健康法が説いている「丹田」の重要性は、ほとんどの民間健康法や霊術等の裏の体育に共通して主張されている。この「丹田」という言葉こそまさに裏の体育を象徴している言葉ということができよう。


◎丹田とは何か
丹田も厳密に言うと「上丹田(眉間)」「中丹田(胸の中央)」「下丹田」と三箇所ある。普通、丹田または「気海丹田」というのは、下丹田をさす。その位置は昔から、臍の下5~7センチ位下ったところである。「腹で動け」「腰を入れろ」「下腹に力を入れて耐えろ」などと言われてきたのは、みなこの丹田を中心に動作しろ、という意味である。そこはいわば重心点のようなところであり、何も特別な内臓器官があるわけではない。「丹田力」とか「丹田の働き」といっても、それを表現するには、詩的、文学的表現によらねばならない。そうなれば、人間同士の相互理解は今よりずっと深まるであろうし、人間以外の鳥獣魚虫、草木等の生物全体の共生を本質的に検討する地球規模のネットワークもできてくるのではないだろうか。



◎武術の特異性
日本の体育の歴史を考える場合、それは武術の歴史でもある。武術は、現在のスポーツ中心の体育とはくらべものにならないほど精神的、心理的問題が深くかかわってくる。生死をかけた立合ともなれば、心身は単に「あがる」というなまやさしい状態を越え、筋肉の痙攣硬直、失禁、失神などの状態が起こりやすくなってくる。
したがって、武術としての体育では、体の鍛錬を通して、身体と同時に精神も鍛えねば意味がない。その身体も精神も鍛錬によって、わずかな気配も敏感に察知しつつ、しかも動じないといった、いわば鈍さと鋭さを同時に兼ねそなえたような状態が必要なのである。このように武術は、矛盾した心身の状態を、矛盾なく体の中で感覚としてとらえることができるようにならねばならない。そのため、「精神修養」であるとも言われてきた。



◎丹田の養成法はあるのか
この丹田は、現代の一般常識ではきわめてとらえ難く、説明しにくいものである。「気」や「気合」は、この武術という世界を通すと、理解しやすい。日本の武術に対して、日本人全体が心身不二からくる「気の感応」という
いわば超常感覚を当然のこととして暗黙のうちに認めている証拠であろう。

現在でも日本中にあるさまざまな種類の武術、武道団体が、多かれ少なかれ、これら霊術の影響をうけていることはたしかである。古武道のなかには、霊術とほとんど区別をつけ難いものもある。合気道の一派のなかにも、戦前の有力霊術団体のノウハウをソフト化して継承しているところがみられる。



◎人間にとっての自然とは
「裏の体育」は、自然との調和を見出そうとする「心身を不離の関係とみる東洋的な自然観に支えられたものである」。東洋の思想は常に自然の働きを直観的に理解することによって、不安の克服と、生きる意欲の充足を果たそうとしていた。「自然に委ねる」ということを最大の原則としている文化は、経験を積み、代を重ねても、それによって自然環境が破壊されるというようなことは、決して起こらない。

すなわち「自然に任せ、自然に還る」という大原則は、経験を分析することにより、知識がすさまじい自己増殖をして、機械・科学文明を生む、というようなことはないからである。東洋は道具の文明、西洋は機械の文明とも言えるのはこのような背景があるからであろう。そして、東洋がこのような基本思想を持った大きな理由は、心身不二の観方であり、しかも、それを実際の日常のなかで体感として確信できるようにするため、この心身不離の相互乗り入れ点を「丹田」という形で持っていた。その「自然な生き方」を追求するために最小限必要なものが、「丹田」とよび「気」といった体感的概念である。


◎本質的体育の探求を
本質的体育とは、それを実践研究していれば、自ら「人間存在の意味」といったことにまで思いが及んでくる」つまり、「本質的体育とは、その人の生きる根本的な姿勢を決するものだ」ということである。より本質的に自らの身体に責任を持って身体を維持し育てるということは、日常の生活行動はもとより、怪我や病気に対してもそれにどう対応するか、ということまで含んでいるからである。自らの健康維持は、自らの死生観を確立し、それに従って行うべきである。

とまあ、ネットを渉猟しながらポイントを纏めてみたが、なんといっても裏の体育のツボは「呼吸」と「丹田」にありですね。これは、また丹田特集としてまとめてみます。
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by ogawakeiichi | 2009-03-06 16:57 | 身体性
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