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彩遊記

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シュレディンガーの猫

f0084105_21112772.jpg前略、小学5年白組のふなこ・・つきさん。へ
おじさんはいつものように猫を抱いています。きょうはなんとなく『シュレディンガーの猫ちゃん』というサイエンスに浸りたい気分です。

♪じゃぐだ、ぐだぐだ、ぐだぐだじゃ♪はじまりはじまり。ささいえんす~~

さて、この『シュレディンガーの猫ちゃん』の棲む世界は、量子の世界です。白画廊のおやじさんの奥さんは「りょうこ」さんですが、「量子」はりょうこではなく「りょうし」って読みます。だから「シュレディンガーの猫ちゃん」は白画廊に棲んでいるあの猫ちゃんとは違いますよ。

「量子」というのはモノが運動したときの値といったらいいのか、物理量の一番小さい単位を「量子」といいます。

ニュートンさんが説いたニュートン力学では、モノは連続して動く「慣性の法則」などがありますね。ところが連続して並ばないものがあって、その並ばない値の不連続が物理学的にピッタリと合う場合があることがかわってきました。それが量子力学なんです。

しかし量子力学はあの大科学者アインシュタインの「一般相対性理論」とは異なるもので、アインシュタインさんはとうてい認められないと考えました。

ところがニュートン力学や一般相対性理論ではどうしても説明できない現象が、『量子力学』で考えると,すっきりすいすい解決することが分かったんです。でもねえ、この断絶する不連続の「量子」の飛び方ってのは幽霊みたいなもんで,おおきなおおきな謎だったのです。

じゃあ、この幽霊みたいな飛び飛びの不連続体って何だ?ってなことですが、それがシュレディンガーの猫ちゃん問題なんですね。「多世界解釈がひらく量子論のあたらしい世界観です」

「半分生きてて、半分死んでいる猫!!」ですね。
ああ、もうかわらん。そう言わず。がんばって~。
そんなときは音読してみましょう。なんとなく感覚的に腑に落ちてくるよ。





レベルをちょっと上げて書きますね。小学生にはちょっとむつかしいかな~

量子力学では存在するってことが、あるときは粒子であり、あるときは波動になります。
これはどういうこtかといえば確率的にしかその存在のアリバイを告げられないということです。
位置はわかっていても運動しているかどうかはわからない。位置はわかっていても運動しているかどうかは言えない。量子論はそんな存在の消息の告げ方で登場してきたのです。

ビリヤードのタマが広がって進んだり、あっちこっちに見えたり、確立分布しているなんてことはふつうマクロの世界ではおこりません。

しかし必ずそう言い切ることもできないのです。

簡単に言うと、量子的な現象はミクロでおこっているだけでなく、もともとマクロ的にもおこっているのに,それが、マクロの観測装置ではどうしても認知させないしくみになっているのではないかということです。アッ、簡単でもないか。ははは・・

つまりマクロとミクロは分けられないのに、それを僕らの人間の認識構造はなんらかの理由で分断してしまった。そのため、量子的解釈を特殊なものとしてみている。そういった新たな見方です。

ミクロの世界とはだいたい一ミリメートルの1,000万分の一よりちいさな世界です。物質を構成している原子の大きさよりさらに小さな世界、それが量子論の活躍する世界です。それより大きな世界は「マクロの世界」と呼ばれ、ここはぼくらのもつ常識が通用する世界です。

コンピューターやいわゆる「ハイテク」と呼ばれる分野の製品はすべて量子論の産物でもあるんですよ。量子論が説明するミクロの物質観は、確かにわたしたちの常識からすれば、納得のいかないことだらけでしょ。

たとえば、観測していないときの電子は、「こっちのもいるがあっちにもいる」とか、物質は常にあいまいな位置と速度を持つとか、なんかよくわからない言い方をします。

でもね、よ~く考えてみると、未来は厳密なルールによってただ一つにきまっているわけではなく、さいころを振って決まるような確率的なものなんですね。最初はその意味さえもつかめないでしょうが、でもこれが量子論によってあきらかになった自然のホントの姿なのです。

まあ、アインシュタインさんは、「神様はサイコロを振らない」って言って量子論に批判的でしたけど・・

量子論の見立てにたてば、物質は粒子か波動とかではなく、つまり「そのうちのどれが」ではなく、「そのどれかのいずれも」という見方です。話はちょっと飛ぶけど、これって南洲寺の老師の公案である「不二法門」じゃあ、ないですか。

もっといえば、「存在」が確立的にしか見えないのは、その確立振幅(確立分布)しているぶんだけの「世界」がそこにあるという見方です。それは世界の存在の哲学として、また、世界観の持ち方として、かなり新しいものです。

『シュレディンガーの猫ちゃん』は、生きていて、なおかつ死んでいるらしいのです。
量子論ではミクロの世界の物質を「こっちにもいるし、あちにもいる」なんて考えるのですが、
それをそのまま当てはめると、ミクロの物質の集まりである、この『僕という存在』に関しても「生きているのと同時に死んでいる」そういうことです。
まあ、人生は【シュレーディンガーの猫】でもありますからねぇ。箱をあけるその瞬間まで、結果は誰にもわからない。

ぼくらは、そこを予想するだけでいいという世界をもっている。
そこを感じるだけでいい「存在」を知っている。
「そこ」に手を触れては「それ」が「それ」ではなくなることがあるのです。

わかったかな~ぁ。


謝謝大家
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by ogawakeiichi | 2009-03-07 21:12 | サイエンス
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