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彩遊記

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うつぼ舟

うつぼ舟_f0084105_810566.jpg◎水墨の師匠が「メイユエンモン」を知ってるか?と尋ねたことがあった。聞きなれない中国語の音でも、慣れてくると、語感から、日本人の名前じゃないかと想定できるのだが、あくまで日本人ぽいと言うだけで、なかなかそうやすやすと中国語の音と日本名がアタマの中で繋がってはくれない。

「メイユエンモン」「メイユエンモン」と幾度か唱えているうちに、はっと「梅原猛」がヒットした。中国語は、ときどきとてもやっかいな言語だ。英語などとは違い、日本の固有名詞をすべて中国語読みにする。ちなみに浜崎あゆみは「ピンチーブー」だ。ブーになっちゃった。(※中国人にとっての日本語の固有名詞もおなじことが言えます。)

水墨の師匠は、訪日で京都を訪ねたおり、「梅原猛」の茶室に招待された。一緒に撮った写真をときどき日本人に自慢げに見せるのだが、芸術系でもないかぎり誰にでも知られたメジャーな存在でもない。

梅原猛は、京都市立芸術大学の元学長。JOCVの先輩アーティスト藤浩志が在籍当時の学長でもある。ぼくは二十代半ば、「仏教の思想Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」からパラパラと縁起をめくりはじめた。

◎唐突だが、個も類も人間の思想は深化していけば、行くだけ、まさかと思っていながらも数寄な彷徨へ向かってしまう。ぼくは日本では、ミトラ、ゾロアスター、マニ、景教らの存在ががすっぽり抜け落ちているのではと密かに思っている。正倉院がシルクロードを伝わってやってきた文物のゴール地点だとすれば、アタマの産物であるミトラ、ゾロアスター、マニ、景教など宗教思想が伝わってきていないとは考えにくい。

景教は空海が持ち込んだ。真言宗は景教(キリスト教ネストリウス派)が深層に流れている。景教に付随してたぶんに、アヘンや水銀や金の精錬の秘法も入ってきた。真言宗の作法をやってみて驚いたのは、十字を切ることだ。灌頂の儀式だってキリスト教の洗礼の儀式じゃないのか。東大寺のお水取りや各地の神社で使用される松明には、単に明るさのためというより、宗教に必要な神秘性が見られる。ざっくり言えば、それらの宗教は深くその存在を隠し、在来の宗教の中に身を潜め、伝来したと想像できる。景教と空海の関係については機会を見て述べてみたい。

ここでは空海以前に、「秦氏」が持ち込んだと思われる原始キリスト教の考察を梅原猛の新刊「うつぼ舟」をなぞりながら、上記の妄想にアワセていく。




◆日本書紀によればの始皇帝の子孫と伝えられる秦氏は、応神天皇の14年に百済より渡来し、優れた養蚕技術で仁徳天皇の御代に素晴らしい絹織物を生産したために「波陀」、雄略天皇の時代には、「うずまさ」の姓をたまわり、現在広隆寺がある葛野を拠点に京都盆地全体で隆盛を極め、京都文化の基礎を作ったとされている。

◆広隆寺は河勝の本名、広隆からつけた名である。広隆寺は真言宗御室派の寺院。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら、ほうこうじ)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称がある。帰化人系の氏族である秦(はた)氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した、京都最古の寺院である。広隆寺は弥勒菩薩半跏像を蔵し、それは「宝冠弥勒」と通称される像で、霊宝殿の中央に安置されている。日本に所在する仏教彫刻のうち、もっとも著名なものの1つで、ドイツの哲学者カール・ヤスパースがこの像を激賞したことはよく知られている。

◆秦河勝は聖徳太子の政経ブレーンとして活躍した。太子一族の没落後、藤原鎌足の陰謀によって流罪の身となり「うつぼ舟」に乗って西海を漂い、播磨の国坂越に漂着し死後は大荒大明神として祀られた。播磨の坂越は今の赤穂市であるが、秦河勝は大避神社に祭られ、秦河勝の墓は播磨(赤穂市)の生島にある。

◆うつぼ舟とは、さまざまな異人や貴種が乗って海岸に漂着する舟を指す。その舟に乗る人は海岸に流れ着くさまざまな漂流物と同様、異質なものとして扱われる。もちろん、それを見越して人はうつぼ舟に乗せられ、海へと流される。いわゆる流刑である。

◆京都市右京区太秦にある広隆寺にほど近い木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は、梅原猛によると、秦の始皇帝を初めとする秦氏の祖先を祀っているとする。木島神社には三柱鳥居がある。この鳥居はダヴィデの星「六芒星」と関係し、ネストリウスはのキリスト教と関係あるとしばしば論じられてきた。「六芒星」にはは陰陽道の中にダヴィデ信仰が忍び込んでいる。或いはキリスト教の影響ではなく、陰陽道以前の日本の原始宗教にすでに星信仰はあったのかもと推測される。また梅原は法隆寺論を『隠された十字架』というメタファーを使い、法隆寺、あるいは聖徳太子には日本に移入されたキリスト教がどこかに秘められているのではと推測する。

◆秦河勝を祀る赤穂の大避神社と京都広隆寺にはさまざまな共通項がみられる。広隆寺の牛祭りのまつわる十二薬師の十二神将、大避神社の祭りの日である、九月十二日、船渡りの出る舟の数の十二、祭りを守る社家の十二.アブラハム・ヤコブの十二.イスラエルの十二部族。『十二』という数字がしばしば繰り返されるのはいったいなぜだろうか。

◆梅原猛によれば、秦河勝は日本最初のキリスト教信者であり、彼の庇護者であった聖徳太子もそれに影響されたと思われる。ペルシアのササン朝に保護されたネストル派のキリスト教(景教)は当時ペルシアから中国在住の中国人(秦人)に広まり、それが朝鮮半島を経由して日本の播磨の国坂越に上陸してそこにダビデ礼拝堂が建てられた。それが現在の大避神社で、古来から存する井戸はヤコブの井戸であったと考えられる。なお梅原は、このキリスト教伝来と同時に、謎の摩多羅神もやってきたのではと、この「うつぼ舟」で述べている。


◎古代史学者ではない、どちらかといえば宗教哲学に造詣の深い「梅原氏」の最近の振る舞いと動向を見れば、日本史に秘められた、奥の院がすこしづつ表層に出現してきた気配がする。しかし、これも、おなじ単語をもって同じ文脈に同調する回路がないことには、そんなこと思わないわけで、突き詰めれば本と読み手の存在の意味にも繋がってくる。

藤浩志の言葉を借りれば、「そこにあるためにはそれを認識している人がいるからそこにある。つまり関係の中にある。関係がない、つまり、無縁であると「そこにある」ことすらない場合がある。見えなかったり、無視されていたり・・・。存在はしていても、ゴミとして存在する場合もあれば、厄介者として存在する場合もある。」

言い換えれば、人間の思想は深化すれば、するだけ、数寄な縁起を求める彷徨へ向かってしまうということだろう。この「うつぼ舟」との縁起も、巷にちらばるゴミの存在の中から拾い出した出会いであり、それは、ぼくにとって存在として認識されたということになるということかぁ。おっ・・話が逸脱してしまった。

謝謝大家
by ogawakeiichi | 2009-03-10 08:10 | 歴史アブダクション
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