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彩遊記

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松林図屏風

f0084105_9372545.jpg「松林図屏風」は萩耿介氏第二回日経小説大賞受賞作。これは小説なんだと、フックを掛けて読んではいるものの、これまでの等伯の面影と余韻が邪魔をして虚構の世界といえども、そうドップリは浸らしてくれない。「松林図屏風」をちゃんとみろ、もっとうまいウソを書けと、ぶつぶつと口ごもる。なにせ水墨系に関しては少々見通しが利く、少々うるさい。

長谷川等伯は、桃山時代に狩野永徳率いる狩野派と対抗し、自ら「雪舟五代」を名乗り長谷川派の長として活躍した。

小説「松林図屏風」は等伯へのぼくの数寄が確認できる仕立てだと思えばそれはそれでいいのだが、東京国立博物館にある「松林図屏風」の“余白の美”の面影のアンカーがなかなか外れない。余韻が邪魔をする。一旦、面影払いでもしてからと、小説「松林図屏風」の最終章中途で退出。つぎ読むときは好々爺になってからがいい。




東博にある等伯の現物と対峙もしないでおこがましいが、大胆に、ぼくの等伯の面影は“余白の美”の余韻なのである。等伯のその“余白の美”に至るまでの“アーティストとしての振れ幅”や“ウツロイ”の表現不足が『小説「松林図屏風」』に浸れない原因になっているのかも知れない。

等伯は法華一門。法華の本来は“余白の美”などと洒落てはいない。ギラギラだ。どんな身に生まれても法華一乗を確信して、その気持ちをもって仏国土の構築にこの身を捧げるという激烈なテーゼだ。法華の近代史は北一輝、宮澤賢治、石原莞爾を創発し、血盟団なる秘密組織は順逆不二法門を確信しテロにも向かった。


長谷川等伯と狩野永徳が生まれた天文年間は、日本の近代史にとって重要な時期にあたる。この時期「禅林アート」から「法華アート」への転換が起こっていた。狩野正信・元信・永徳はもちろん、長谷川等伯も俵屋宗達も、本阿弥光悦も、桃山時代を代表する画家たちの多くは法華アーティストであり、この時期、法華宗が力を得たことがアーティストの追い風にもなっていた。

とくにライバルと目される長谷川等伯と狩野永徳の鍔迫り合いの裏には、法華の事情がのみこめないと腑に落ちないことがいろいろある。

等伯の「松林図屏風」の余白の美には、「法華一乗」をもつき抜けていったとしか思えないのである。強烈な法華の向こうに現れた、「一切去来」の地平。

絢爛豪華な狩野派全盛の世に、独自の静かなる絵で対抗していった。「永徳の法華の振る舞い」「等伯の法華からの動向」そこが書けてない。そんなことなどお構いなしの小説構成に不満なのです。まぁ、いいや。そのうちおいらが、ふふっ・・・


昨今の「松林図屏風」の常でない人気は知っているつもりなのだが、人気があると、ついそっぽを向きたくなるのもである。だが、「松林図屏風」には全くそんな気も起こさせない逸品だ。

「松林図」は、現れようとするものと消えようとするものが一緒になっている。余談だが中国安徽省、黄山を撮る汪蕪生(ワン・ウーシェン)の写真にもこれがある。

松林が現れては帰依、消えては現れるのではない、顕現することと寂滅することが一体になっている。松林そのものが「影向(ようごう)」であって「消息」なのだ。松林そのものが、そのものとして「一切去来」なのである。松林の「移り舞い」なのである。

「松林図屏風」は法華アートから禅林アートへ時代を逆行する甦りにも見える、きっと等伯は時代の動向から去って忘れられた禅林にどこかで触れたに違いない。たぶんに「茶禅一如」を放った利休との縁起あたりからだろう。

人間の遺伝子のゲノムは、97%正体不明のゴミのDNAだ。われわれの生命の営みには3%あれば事足りる。しかし残りの97%のむだがあることで、新たな進化を引き起こすような「アソビ」ができる。この余白の中に多様なオプションが潜み出番を待っているかも知れない。膨大なむだを抱えているがゆえの自由というものもある生命は、膨大な無駄を前提としてものすごく贅沢なことをやっている。

“余白の美”の本来は、自由で贅沢なのです。

謝謝大家

参考・引用;松岡正剛・山水思想
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by ogawakeiichi | 2009-03-12 09:38 | 日本史&思想
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