アジアの『かたち』、いや世界の『かたち』のなかでも重要なもの。それは螺旋、渦である。渦のカタチのひとつ「巴」(ともえ)紋について考察していく。
大太鼓の中心に描かれている文様が「巴」(ともえ)紋。「左三つ巴」・「右二つ巴」と言い、「三頭左巴」・「二頭右巴」とも言われる。巴は日本でも代表的な家紋・神紋である。
ご社殿の大太鼓の巴紋を見ると向かって右側(左方)は巴が三つ描かれてあり、左側(右方)は巴が二つ描かれている。さらに渦巻の方向も違う事に気づくはずだ。なぜ左右の太鼓の模様が違うのだろうか、理由は大太鼓はかならず対になる、その左右の太鼓を区別するために巴の数と渦巻の方向を別にしていることが窺える。平安後期の説話集『江談抄』には、右方の太鼓は二巴で右巴(時計回りに廻っているもの)左方は三巴で左巴(「右巴」の反対方向に廻っているもの)と書かれている。
ところで、なぜ巴の数が三つと二つなのか、はっきりしたことはわからない。ただ想像するに陰陽五行説の影響ではないか。左太鼓の日形(ひがた)は日(太陽)<陽>で、右太鼓は月<陰>。また左太鼓に描かれている龍は男性を表しており『陽』、右太鼓の鳳凰は女性を表し『陰』、つまり左太鼓は「陽」で奇数(三・五・七・九)になり、右太鼓は「陰」で偶数(二・四・六・八)になり、よって左太鼓の巴の数は三<陽>で右太鼓は二<陰>となるわけである。
この巴紋だが、日本では古墳から発掘される勾玉と起源が同じだ。天照が岩戸に隠れた際に神の一人がつくった八尺瓊勾玉は三種の神器のひとつでもある。また、勾玉は、男女が一緒になって生み出すまったく別の生命力である胎児を暗喩させたカタチにも見える。さらに勾玉にはもうひとつ「巳」(ヘビ)という字を象っているのではないかとも。
上記以外にも、月をかたどったもの、動物の牙をかたどったもの、魚をかたどったもの、腎臓をかたどったものなどの様々な説があるが、しかしこれといった定説はない。ただ、勾玉は単なる装飾具でなく、呪術的な意味合いを持っていたことは確かなようだ。巴紋を勾玉の二つ、あるいは三つの集合体という見方もでくる。
しかし、勾玉説をとると日本以外では韓国の一部でしか発掘されていないことから、巴紋を神紋とする渡来神であろうとさせる八幡神の説明がちょっと弱くなる。まあ、韓国の一部がどこかをちゃんと調べてからだなぁ。
巴について書かれたサイトを渉猟してみると、巴紋は世界各国(主にスペイン・エジプト・中央アジアから中国・韓国)に似た様な形(文様)があるようだが、形成する過程において解釈が異なる。そのなかの幾つかを紹介してみよう。日本では「巴」とは「鞍・絵」を意味し水の渦を巻く形が「巴」の原型ともされている。「鞆」とは日本古来より使われた武具で弓を引くときに、これを左手(弓手)の手首につけ、弦のさわるのを避けるために用いられた。中国は 雷・雲の形を表しまた「巴」を蛇がとぐろを巻いている形を表し「蛇」の意味があった。韓国 陰陽の龍蛇を表す。などの由来が登場している
家紋と同じように、神社にも紋所があり、これを神紋、また社紋と呼ぶ。家紋の起こりは平安時代の末頃から、公卿が自家の牛車に目印として図様をつけたことから始まったとするのが定説だ。神紋の起源は、主として祭神に関する伝承や神職または有力な氏子の由緒に基づいて生れた。安斎随筆に「靹絵・輪鋒・万子を神の紋とす」とあって、なかでも三つ巴の紋を神紋とする神社が圧倒的に多い。 神霊のシンボルとして神社などが巴紋を用いるようになった。
日本で存在する最古のものは高野山金剛峰寺にある「聖衆来迎図」に描かれている中太鼓の剣巴の文様とされている。巴紋は宇佐八幡宮(神宮)などの八幡神社の神紋でもある。(写真右側に巴紋の一部が見える)
鎌倉時代になると源頼朝が鶴岡八幡宮を源氏の氏神として崇めたことにより、それにあやかって武士の間で多く使用されたため巴は皇室のご紋章である菊・桐に次いで最も多く用いられる。
八幡様の総本社―九州大分県の宇佐神宮の神紋は三つ巴である。放生津八幡宮の祭神応神天皇は論語、千文字などの大陸文化の導入者で、平和国家・文化国家の建築に尽くされた神であり、神紋は菊花と桐紋の抱き合わせ紋である。菊花紋・桐紋はともに皇室のシンボル的ご紋である。
三つ巴を神紋とする神社としては、 石清水八幡宮・ 大神神社・ 二荒山神社・ 鹿島神宮・ 香取神宮・ 宇佐神宮などがある。以上、巴に関する資料を集めてみたが、これをもとに詳しく考察していく必要がある。
巴紋の謎はなかなか深い。
謝謝大家