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彩遊記

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義満と世阿弥と男色と

f0084105_7393486.jpg足利義満が絶世の美少年『藤若』を寵愛し、レオナルド・ダ・ヴィンチがジャコモという少年に目をつけ『サライ』の愛称で可愛がったことは知っていたのだが、しかしあの『藤若』が、あの花伝書を書いた『世阿弥』だったとは、まったく知らなかった。

なんだが、ショックだ。たとえてみれば、独身だと思っていた人に旦那がいた!みたいな・・・。が、まぁしかし、芸術家には意外と男色が多い。

『藤若』は大和の観世座で、初舞台を踏んでまもなく、時の将軍足利義満に目を付けられた。ということは少年愛の相手にもなったということでいまの少女マンガが描く世界を、はるか昔に世阿弥たちが生きていたわけである。

もちろん、世阿弥は色香だけで出世したわけではなく、並外れた才能があったわけで二条良基(にじょうよしもと)のようなトップクラスの文化人たちからも可愛がられ、『藤若』こと世阿弥も、そこへとよばれた。連歌師たちのサロンにも出入りし、一流の文化人たちと交わりながら、能を大成していった。




しかし、世阿弥もまた世の無常にはかなわず、将軍家の寵愛が別の芸能者へと移ってしまい、自分の能を継承してくれるはずだった息子には先立たれ、最後は佐渡へと流され死んでいく。それでも世阿弥は、自分のやるべきとこだけをしっかりみつめていたようで、能に関する理論書『花伝書』を書き上げる。(松岡正剛 「世界と日本の見方」)

歴史をトレースしてみると少年愛の話は、いたるとことにころがっている。意識的に男色文化を残すことで、蛮性(戦闘性)の維持を図った藩もある。薩摩、土佐、佐賀、会津などが、それである。

薩摩には、「郷中」というシステムがあった。これは、地域別の青少年自治会といったもので、主に元服前(15歳前後)の「稚児」と、元服後妻帯前の「二才(ニセ)」に分け、二才たちが稚児たちの生活を指導し、教育した。

稚児たちは、他の地域の二才と接することが禁じられ、年長者に対しては絶対服従を強いられた。同時に、徹底的な女性差別が行われ、女性との交際はおろか、口を利くことすら穢らわしい、とされた。それどころか、「道ばたで女を見かけたら、穢れが移るから、避けて通れ」と教えられた。「愛」とは「兄」と「弟」の義兄弟関係での友愛(南方熊楠が言う男道)を指した。!(氏家幹人「武士道とエロス」 菅野覚明「武士道の逆襲」)

西郷と大久保の離反の原因を、南方熊楠は、稚児の奪い合いが元だったといっていたような・・。う~ん、なんの本に書かれていたか、忘れてしまった。

西郷が錦江湾で心中入水自殺を図った相手である月照との関係も男色の間柄という。そのうち『時代を動かす男色とアート、そして変革』といったテーマで考察をしてみたい。

ところで、『藤若』(世阿弥)を寵愛したこの「足利義満」は室町幕府の開祖「足利尊氏」の孫である。

つまり、「足利尊氏」の最大のライバルというと南北朝の「楠木正成」ということになるわけだが、実は「楠木正成」の姉か妹がこの「観阿弥の母親」だ。こりゃまたびっくり。!

ここからは、足利氏と楠木系・世阿弥の関係を、梅原猛『うつぼ舟II 観阿弥と正成』に共振させて、を考察していく。
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観阿弥の母、つまり世阿弥の祖母にあたる人は、楠木正成の姉で、したがって南朝とは切ってもきれぬつながりがあったのです。正成が多くの忍者をもちいたことは有名ですが、神出鬼没の彼自身もいわば、忍者の親方のような人物だったかもしれません。観阿弥の屋敷跡は、伊賀盆地の中心ともいうべき『お能本』とも呼ばれ、観世田、田楽屋敷など、芸能と関係のある地名が残っています。(中略)

最大の惨事は、彼が七十歳に達したときにおこりました。将来を託していた長男の元雅が死んだのです。永享四年八月一日のことでした。『夢跡一紙』という書のなかで、世阿弥は悲痛な言葉でその悲しみを訴えていますが、原因については口を閉ざして語りません。が、伊賀で発見された系図には、「足利の家臣斯波兵衛三郎に、伊勢の安濃の津で暗殺された」と明確に記してあります。これは私の憶測にすぎませんが、南朝に与した伊賀出身の一族は、ひそかにスパイとの関係の深い吉野の天川には、元雅が死の二年前に奉納した面が残っており、無言の中に深いつながりを示しています。(白洲正子「世阿弥を歩く」)
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つまり、南北朝で徹底的に対峙した足利氏と楠木氏だが、三代の後。足利義満と世阿弥のときには、思いもかけない、男色関係というわけだ。

能楽即ち猿楽の本家といえば、秦河勝の子孫と称する金春家である。観阿弥当時、大和には金春、観世、金剛、宝生の四座があった。

伊賀に「上嶋家文書」といわれるものがある。吉川英治の『私本太平記』や杉本苑子の『華の碑文』に多大な影響を与えた文書であるが、血統的に楠木正成から連なる観阿弥・世阿弥の系図を書いた本である。ただ、アカデミックなお堅い世界では、偽書とするむきもあるが。。どうでしょう?

阿弥は正式には観阿弥陀仏といった。阿弥陀仏という称号は、本来時宗の徒が用いていたもの。しかし当時は、時宗の徒に限らず、阿弥陀仏を名乗ることによって、遁世者としての身分を社会的に宣言する風潮があった。特に念仏聖を始めとした芸能の徒には、この称号を用いるものが多く、聖となることによって、社会の束縛から一応自由になれたことが、この称号を流行らせるに至った事情であったと考えられる。

この当時、活躍した芸能者やアーティストには『阿』や『阿弥』という称号をつけた。それらはみんな時宗の人たちである。猿楽から「能」をつくった観阿弥、その息子のの世阿弥、田楽氏の頓阿・善阿・庭師の善阿弥、「立花」といったいけばなの元をつくった立阿弥・文阿弥などだ。

なぜ時宗がたくさんの芸能者をひきつけたかと言うと、やはり一遍上人の教えが、定住せずに諸国を回っ「遊行」しなさいということからだろう。

観世家は伊賀の甲族・服部氏の出身である。「上嶋家文書」によると、観阿弥は楠木正成の甥であることになる。当然正成の挙兵には参加せねばならない。

おそらく正成が兵を挙げた時代には正成に勝ち目はないと、観阿弥の父母は考えたに違いない。それで彼らは兵にいかなくてよい猿楽師の選んだのであろう。

観阿弥、観世音菩薩、楠正成・毘沙門。中世の怨霊たちが跋扈する太平の世。みなみな浮かれて、田楽に舞々に猿楽に酔いしれた。

梅原猛は『うつぼ舟Ⅱ』で、中世の歴史・文学・宗教を縦横無尽に網羅し、歴史のアカデミックな立場ではなかなかできないアブダクションで楠木・義満・世阿弥を読み解いている。

それにしても男色・女色、色恋はモノ・コトの推進エンジンなんだ。そういえば、とくに革命家といわれた方々、たとえば毛沢東、孫文、ゲバラ、みなさん、おつよいです。

ヨーガの技法に『性エネルギー昇華法』とかいうのがあったけど、今度チャレンジしてみよう・・かな~。
あっち系のエネルギーの余っている人にしか使えないんだっけ?。
お・わ・り

謝謝大家
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by ogawakeiichi | 2009-03-26 07:46 | 歴史アブダクション
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