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彩遊記

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老子と荘子の間隙

荘子と老子のタオの間隙を知りたいとある時、ふと思っていたのだが、構えをもってプッシュするまでのこともなく、オポチュニティーな状態で向こうからやってきたなら、丸呑みしようと企んでいたのだが、それがいよいよやってきた。一通のメールからはじまるオケージョンである。

「必ず名を正さんか」と言って、名実を合致させたのは『孔子』だ。その孔子を儒をもってヒエラルキーを構築する絶対的な思想であるとすれば、ことさらに知や欲をはたらかせず自然に生きることをよしとした『老子』は相対的である。
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それでは、おなじくタオイストの荘子の立ち居地と言えば、老荘思想と言うくらいだから相対的であると思われるのだが、まあ相対的な上空を漂ってはいるものの、そこからふらりと出遊していく。そのアソビ場所が、絶対に向かうというなら、よくある話だ。だが、そうではなく、たえず相対を出て、相対を越えていく。「無為」をもってひらひらと舞う。これが荘子なのである。

そこが老子の「無為自然」とはすこし異なっている。始原、本源、大極のアーキから、超越、横超して胡蝶は舞い、トランスしてしまうのだ。

老子も荘子もむろん「タオ」(道)や道家思想を説いてはいるが、老子のタオは粗なるものに対しての精なるものであり、荘子のタオは太始も太終もなく。そこには形もなくて常もない。

孔子の「正名」に対し、荘子を「狂言」とした。「儒」に対しては「遊」である。荘子の狂言とはたんに言葉を狂わせるというものではない。妄言と見えるのは汝にとってそう見えるのであって、荘子の言葉そのものはさしずめ無言語的始原から発してくるような、そういう言葉であった。つまりどのようにもとれる言葉なのである。

これをしばしば、荘子の「寓言、重言、卮言(しげん)」などという。寓言は他人に託して言葉をつかうこと、重言は歴史に託して言葉をつかうこと、卮言はその場に託して言葉をつかうことをいう。荘子はそれを文章術の極意とさえ考えた。自分で書いていると思わせない文章ということだ。

自分から抜け出し、もうひとりの自分がヒラヒラと舞いながら抜け出たあとの自分と周囲のそれを眺める。空(ウツロ)なる自分の身体に、自己意識を出入りさせて、遊んでいるのが荘子なのである。(参考:松岡正剛・千夜千冊)

謝謝大家
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by ogawakeiichi | 2009-03-30 22:23 | アジア史&思想
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