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彩遊記

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稜威(イツ)

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博多の櫛田神社の山門に『稜威』という文字が掲げられている。そのすぐ近く大正のおもかげを残す旅館『鹿島本館』で九博での独演会を終えた翌日、松岡はこの『稜威(イツ)』について淡々と語り始めた。しかし、出入りを繰りかえしサティーの定まらないぼくの意識は、この『イツ』に翠点があわず、浮遊するのみ。ガツンと腑に落ちることもなく、だだ「『稜威』(イツ)とは本来の日本の背後に潜む、凄いエネルギーのことらしいと言うだけが頭に残る。

黒澤明は、そのわからない正体を映画で描きたいと思った。中国明朝の遺臣、朱舜水はこの『イツ』を後醍醐天皇の南朝にある不可視な何かを水戸光圀へ示唆をした。この不可視ななにモノかが『稜威(イツ)』であり、その正体は途轍もないものらしい。

はたして『稜威』とはなんなのか。松岡の「千夜千冊」では「稜威」はだいたい以下のように紹介している。

イツとは「稜威」、この言葉がわかる日本人は専門家をのぞけばほとんどいないのではないか。あえて民族学用語をあてはめればマナにあたるかもしれないが、マナとはだいぶんちがう。

日本の教育の本道は感染教育・学習とし、だからこそ、門人がいて門弟ができた。だからこそ師弟が生まれ、入門という儀式があった。赤染衛門は、そういう感染教育なら女性こそが得意ですと言ったわけである。

山本健吉は、このような感染可能な「やまとだましひ」をさぐりながら、その背景に「イツ」という観念が動いていたのではないか。感染可能「やまとだましい」の背景に「イツ」という観念があったと推理した。

稜威は折口信夫なら外来魂ともいうことになる。古代文学史では天皇霊に稜威をつかうこともある。折口か柳田かは忘れたが、琉球語では稜威は「すでる」にあたると読んだことがある。山本健吉自身は「よみがえる能力を身にとりこむこと」とか「別種の生を得ること」とか「生きる力の根源になる。威霊を身につけること」というふうに稜威を説明している。
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▲旅館「鹿島本館」
松岡は言う。「触れるなかれ、なお近寄れ。これが日本である。これはまた、ぼくの信条である。また、これが稜威の意味である。」 


限りなく近くに寄って、そこに限りの余程を残していくこと、これが和歌から能芸におよび造仏から作庭におよぶ日本の技芸というものである。

そこには稜威が仕込まれている。その稜威からなんらかの生活の再生が連打されていく。たとえば刀の研師(とぎし)たちはその刀が再生しうることを知っている。その再生への確信を、日本刀ばかりではなくて、どこまで日本文化のさまざまな現象に広げられるのか。屏風絵や俳句や内露地の飛石に認めることができるのか。

そこが主体ニッポンのアーティストに問われている。
by ogawakeiichi | 2009-04-21 09:03 | 日本史&思想
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