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彩遊記

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芸術と抽象と身体性 (大元)

芸術と抽象と身体性 (大元)_f0084105_759537.jpg土方巽をはじめてみたのは、全共闘の熱気さめやらぬ、法政大学の大学祭でのことだった。全身白塗りの身体でシンセサイザーの音に乗り、踊る姿は、恐ろしく衝撃的で見てはいけないものを見たような気分であった。

舞踏家、土方巽は舞踏譜というものを記述していた。舞踏譜とは、舞踏を踊るための譜面である。彼の舞踏は即興ではなく、すべて譜面に基づいて踊られていた。しかし、その舞踏譜というものは、たいてい絵や詩が書かれたものだった。その絵は彼が書いたものではなく他人が描いたものだ。その絵に詩がつけられ、さらに絵と絵が詩によって結びつけられていたりする。土方巽は、それを見て舞踏という身体表現をしていたのだ。

絵というものはすでに抽象度の高いもので、言語というものは比較的抽象度の低い表現方法であり、詩は通常の言語表現に比べれは比較的抽象度が高い表現形態である。このような抽象度の高い存在と抽象度の高い存在とを結びつけ的確に理解するにはこれ以上に高い抽象度でモノやコトに対処する能力が必要である。

抽象度を上げない限り、それを譜面としてみることができない、単なる絵と絵、絵と詩としてしか見ることが出来ない。

つまり、土方巽という舞踏家は相当に高い抽象空間で身体表現を描いていたことになる。高い抽象度で舞踏譜を読み取ったあとで、身体表現という物理世界に落とし込めなければ実際に踊ることはできない。

抽象度をぐっと上げたあとで、もう一度、低い抽象度まで舞い戻り、身体で表現しているわけだ。

舞踏家は皮膚の表面に白塗りをしている。これは、この白く塗ったところが自分の皮膚だということを強調するためだ。そのことで、皮膚の動きがクローズアップされる。白く塗った皮膚の動きだけで、抽象化された空間のすべてを表現するための増幅装置徒とも言える。

絵画表現も同様である。例えば、風景画を描くときでも一度、抽象度を高めて自然を捉え、その捉えたものを今度は絵筆を使って身体で表現する。絵画の芸術性はどこにあるかと問われれば、絵画そのものにあるのではなく、絵を描いている身体の動きにあるのではないかと思われる。すなわち身体の軌跡が絵なのである。

もう少し突っ込んでいえば、作者が身体をつかって表現しようとしている、高い抽象空間をみるということになる。

芸術とはすべてが身体表現だ。ところが一般の人が芸術作品をみると、その作品そのものが独立した存在としてみてしまう。しかし、本来は作者の身体的軌跡を作品に合わせ聴き、そして見るのが芸術なのである。

きのうエクササイズした、一年生の諸君。無意識から手へと伝えたあの感覚と身体のリズムを忘れんでおいてね。
by ogawakeiichi | 2009-06-18 08:00 | 身体性
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