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彩遊記

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惟宗と島津

ライフワークは大まかに幾つかの柱があるのだが、その柱の一つに、「ユーラシアを俯瞰する」というテーマがある。海外生活が10年を越えたことの節目に、ガツンと腑に落ちるまでユーラシアから「日本の方法」を知りたいと思った。

しかし、なんとなくアタリはついているものの、アブダクションの確信だけはあるものの、大概は確信となるモノに出合わないまま、それ以上進めないことの連続である。

目の前にあらわれた現象も、とっとと忘却の彼方へと飛び去っていく。しかし、そこに記録が残ると、なんらかの蓋然性は高くなる。歴史のゆらぎにおける,『ときの記憶の痕跡』,一次資料となれば、偽物の可能性を含めてもそれはそれで、興味をそそる。

ところが、この一次資料として残る古文書というもの、まったく異なる言語の様で、おいそれとは崩せない。しかし直接、一次資料を読めるってことは、おいらみたいなヤツにとっては、けっこうA10神経系をそそられる。もちろん専門家が書く二次資料や小説でもいいのだが、本モノといわれるものにぐっと対峙したくなる。ああ、壮大なる無駄なことだとおもいながらも、この無駄に至極の創発を求め彷徨したりするわけだ。

初めて中国語に触れたこときのような感覚で、鹿児島の歴史資料センター「黎明館」で古文書をひいひい言いながら、弄くり始めていたときのこと。

初っ端に出合った資料が、やってきましたぜ!いきなりヒット。長年探していた島津の殿様が「惟宗姓」で、島津という名称は現宮崎県都城市である島津荘の荘園管理を源氏から拝命をうけたところからの命名を示す資料である。なかでもこの『惟宗姓』にはそそられるのだ。(※一行目。前右大将家(源頼朝)政所下左兵衛尉 惟宗忠久←ココ)

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(※一行目。前右大将家(源頼朝)政所下左兵衛尉 惟宗忠久←ココ)

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<島津氏>
鹿児島県・歴史資料センター「黎明館」等によれば、島津氏の元祖は、京において渡来系の秦氏の流れを汲む平安時代の人で、中国の歴史や漢文学の学者「文章生」であった惟宗広言、または同族の惟宗忠康の子の惟宗忠久という。惟宗忠康は京の藤原摂関家筆頭の近衛家に仕えて、日向国島津庄(現宮崎県都城市)の荘園の経営者(家司職)として薩摩下向。鎌倉時代のはじめ、その子「惟宗忠久」が源頼朝から島津庄の地頭に任ぜられ、地名の「島津庄」の名をとって「島津忠久」を称したのが始まりという。

最近、歴史作家の桐野作人氏のブログ「膏膏記」(2008.05.04)に遭遇した。そこに紹介されている薩摩の中世史に詳しい三木靖氏(鹿児島国際大学短期大学部名誉教授)の説によれば、島津氏は、初代忠久が鎌倉で活動してそこで生涯を終え、二代忠時も同様に鎌倉で没し、三代久経は、元寇のとき北九州で没している。四代忠宗も北九州にいたことが確認されている。島津家当主で南九州に土着したことが確認できるのは、五代貞久以降であるという。

また、史実に基づかない「惟宗忠久」の伝承の根源は、『山田聖栄自記』にあるという。定評のある史料であるが、一方、これが忠久の「偽源頼朝ご落胤説」(ただし三男)の端緒とも言われる。そして、島津氏出自の扮飾や島津発祥地の伝承が、『山田聖栄自記』から出発して『島津国史』や『三国名勝図会』などへの影響に基づいているという。世間を賑わすこの出自の混乱は、江戸時代後期、とくに「島津重豪」時代の特徴で、重豪が、自身で「鎌倉に源頼朝と島津忠久の墓を建立」したことは顕著な工作の一環という。

更に、同様に、島津氏発祥の地「出水説」や「都城説」も、この史実から離れた『山田聖栄自記』に基づいて主張されている。史実に基づけば、島津初代忠久から四代島津忠宗までは、生涯、鎌倉在住であったことから、「島津氏の真の発祥地」は京都もしくは鎌倉と言うのが真相のようである。

なお、私見ながら、島津氏始祖「惟宗忠久」が、京において中国の歴史や漢文学の学者「文章生」であった惟宗広言、または同族の惟宗忠康の子であったという出自は、島津氏の本来の家風と文化が、知識・歴史・宗教・文化などいわば、「武家」よりも「漢籍に強い学者・知識人」の強い色彩を彷彿とさせる点で、その文化的な特質を感じさせる。このような視点は、幸にも火災などの災難から守られて、現在の鹿児島県立図書館や鹿児島県歴史資料センター・黎明館などに見られる室町・戦国時代からの島津氏の膨大な歴史・文化・資料の蓄積・整頓状況に驚かされることで、半ば証明されるように感じられる。

いずれにしても、島津氏は、「本来、藤原房前を元祖とする京の藤原北家・摂関家である近衛家を、主に経済的に支えて護ることを使命とする家門」の惟宗氏であったと見ることが出来る。すなわち、島津氏は、日薩隅において京の摂関家・近衛家の利害関係を代表し、表裏一体の立場の家門であったと考えられる。
なお、北家祖・藤原房前は、南家祖・藤原武智麻呂の弟。

http://www12.ocn.ne.jp/~n2003ito/obitatakai.htm
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この惟宗の姓って、ユーラシアを旅して日本へやってきた秦氏である。秦氏といえば、藤原家。まあ、これを書き出すと、日本の裏に係わるカタチにまで及んでしまい、書ききらないのできょうは「パス。。

黎明館にはとんでもない一次資料がどっさりあるのである。









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by ogawakeiichi | 2014-08-21 06:14 | 日本史&思想
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