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彩遊記

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多国籍合宿

よくぞ集まった。先月中旬、「共生への挑戦」とのコンセプトのもと、大隅・高隈山麓に四百名を超える老若男女、三十以上の国の人々が集まった。

鹿児島大学留学生センターを中心に、県内各大学のサークルや国際交流関係機関、地域住民などが参加して行われた「多国籍合宿」のことだ。

四月末から、この催しのスタッフで、なにかとバタバタ動き回る弟子の姿を、遠めには見ていたのだが、そのうち「ワークショップをやってもらえないか」と、言い出してきた。

気がつけば、言葉で巧みに絡められ、このイベントに参加するはめになる。実のところ国際交流イベントは、中国でも日本でも、個々や組織が行う単発的な催しに、幾度となく参加してきたのだが、ここ数年なんとなく物足りない何かにさいなまれてきた。しかし今回終わってみると、帰宅した夜は、微妙な神経の高ぶりで眠れないのである。

とりたてて利害関係のない四百名が集まった二日間ではあったものの、限られた二日間だったからこそかも知れないが、インドネシアの民謡“ポチョ・ポチョ”を黒、白、黄の様々な国籍の笑顔が踊る姿は、“これが欺瞞のない平和か?”と思わすような光景がそこにはあった。

これまで「乾杯!」ではじまり、「友達!友達!」で終わる国際交流と、異文化からの客寄せパンダ的な催しに少々食傷気味だっただけに、それとは違う、ぎこちなさが残りながらも満身創痍で準備した気配の読み取れる、多彩なプログラムを仕込んだ学生主体の総合イベントに、終わってみれば、“ひょうたんから駒”。なにか得した気分だった。
 
根っからのグローバリズム(地球主義)や、社交が苦手なぼくにとって、“国際交流”って言葉の響きは、なにかしっくりとこないところがあるのだが、“多国籍合宿”という言葉の響きは、そこから生まれ出る新しい創発の暗示を感じる。

ところで、大方、誰もが平和が好きなはずなのに、なぜに争いが無くならないのか?

東南アジアの学生は、「異なる遺伝子のせいじゃないのか」といい、中南米の研究者は、「前途ある若者の前で、遺伝子を理由にした科学的根拠に乏しい発言をするのはいかがなものか、平和は心によってつくっていくものだ」と反論する。心によって平和をつくっていくことは心情的によく理解できる。

また、平和という名の下に世界を善と悪の対立で分け、争いあっている現実と、悠久の歴史をみれば、科学的根拠に乏しいとされた東南アジアの学生の言いたいこともよくわかる。

二日目に行われた全体での総合討論は、揺さぶられたそれぞれの思いがゆらぎ、ゆらいでどこか収束へと向かってはいるのだか、結論など出ないし、結論を求めもしない。

どうにもならない違いのなかで、きっと「共生への挑戦」へと向かっていたのだろう。ひさしぶりに、いい映画を観たような、胸のあたりに余韻の残る催しだった。
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by ogawakeiichi | 2009-07-07 09:25 | 南日本新聞コラム
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