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彩遊記

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ローウィの仕事

「感じるデザイン」から、「理解するデザイン」へ移行していく気配なのだが。それは、欲望を刺激するデザインから、概念を刺激するデザインへの移行でもあるのだが・・・。まだまだ新自由主義がはびこっておるようだが、・・。以下、引用

アメリカのデザインがあくまでビジネスとして発生したことが、生産者と生活者を結ぶデザイン方法論を導いた。

クライアントに自分のデザインを採用させるためには、「生活者がそれを求めている」(だからこれを採用すればあなたは儲かる)と主張しなければならない。

ゆえに、アメリカのデザイナーは生活者の代弁者を気取る。そこに生活(人間)を観察し、そこからものの有り様を考えることがデザインであるとの主張が生まれてきた。

*ローウィの手法は、MAYA(Most Advanced Yet Acceptable)といわれる。デザイン(外観)の場合、もののかたちは「消費者の了解」のもとに進められる。あるかたちを提供されると、消費者は「以前のかたち」と照らし判断する。変わっていなくとも、また変わりすぎていても消費者の支持は得られない。

現実の商品デザインの大半はある意味でデザイナーと消費者の「駆け引き」のなかで生み出される。デザイナーがどんなに変えようと思っても「変かえられないかたち」を、アメリカの(初期)デザイナーは「サバイバル・シェイプ」と呼んでいた。

ローウィのデザインの方法(機械的なメカニズムに粘土を盛ってお化粧するといった方法)については、「機械の本質(その機器がなんであるか)をかたちにすること」「技術にかたちをあたえること」がデザインとする思想(デザインを文化的な所産と捉えるヨーロッパ流の思想)から見れば噴飯ものであろう。ただここには、「デザイン」という知恵の一端が現れているように思われる。ローウィの仕事を「デザインの知恵の発揮」という視点から再検討してみたい。

○ローウィの仕事は、相手の要求、3日間、2000ドルという前提条件から出発し、「売れるようにする」という明確な目標を持っている。つまりローウィは自ら進んで印刷機をデザインしようとしたのではなく、あくまでクライアントの問題解決の手段として「デザイン」したにすぎない。

○ローウィは、この与えられた課題を「機器を買う側、使う側がどうあって欲しいと思っているか」という視点から解こうとしているように見受けられる。それも「機器の使いやすさ、便利さ」と言った視点ではなく、「これを買えば認められる、自慢できる」といった、購入する側の「やや卑しい感情」までもくみ取ろうとしている。というより、それを起点としてかたちをまとめているのではなかろうか。ローウィはそうした感情をくみ取れない機器は「売れない」ということを知っていたのだろう(だからビジネスマンとして成功した)。

○ローウィの方法を翻訳すれば、まず「売れるもの」=「他人に自慢できるもの」と捉える。その機器がどう自慢できるかを考える(たぶん場面的なものを想定しているのだろう)。購入する側の「ささやかな自慢」といたものが、そう本質的なものであろう筈がない。「あんたはもってないだろ」「おまえのは古いね」といえる程度、つまり時代をほんの一歩リードできる程度でよい。時代は「スピード、スマート」さを求めている。つまりかたちは、ちょっとばかり「スピード感があり、スマートなもの」であればよい。そこで機器のメカニカルな内容にはお構いなしに、「スマート」なかたちをかぶせていく。そんな方法なのであろう。

○「売らんかな」というえげつない方法とはいえるが、(好意的な見方をすれば)機器の外部から機器のあり方を検討し整理したもの、より正しくは、その機器を媒介として、人間と人間との間にどのような新しい関係が生まれるか、という視点から機器を設計していく手法といえなくもない。ヨーロッパのデザイナーがデザインの対象に選ぼうとするのに対し、アメリカのデザイナーは対象にこだわらない。このことは、彼らのデザインが思想表現ではなく、一つの問題解決手法(設計手法)として自立しているからであろう。

○なぜローウィのような仕事が求められたのであろうか。この時代(1920年代)、産業は大量生産したものを一般生活者に大量に販売することが難しいことに気付き始める。生産の論理は合理的、理性的であるが、消費の論理は個別的、感情的でもある。個別的、感情的である生活者を量的にまとめることができればビジネスは成功しうる。この生産と消費のギャップを「機器を外側から見る」視点から埋めていく方法論を提示したものして、ローウィら初期のデザイナーの仕事が注目されたのであろう。

○このように見ると、ローウィらは機器にかたちを与えたというより、「機器を求める気持ちにかたちを与えた」といえるのではなかろうか。生活者の気持ちを汲み取り、それを一定の方向へ誘導する技術(生活者を消費者へと囲い込む技術)、つまり生活者の欲望を刺激し、それを産業にとって都合のいい方向に組織化する方法として、「インダストリアル・デザイン」という一つの技術が成立したと考えるべきではないか。その意味で、「インダストリアルデザイン」は、産業の申し子以外のなにものでもない。

「機器の本質にかたちを与えること」がデザインであるとすれば、ローウィの方法は邪道である。ただし、機器の外側、つまり購入者、使用者の要求の側から機器を設計していく一つのデザイン(英語でいうデザイン)を確立したという点では、評価すべきではないだろうか (日本デザイン振興会 青木史郎)
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by ogawakeiichi | 2009-11-20 21:50 | 情報とデザイン
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