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彩遊記

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平山郁夫

f0084105_1529223.gif中国の美術家の多くが、平山郁夫の名を知る。元東京芸術大学学長、日本画家の平山画伯がお亡くなりになった。中国においてトップレベルの画家を数多く輩出している清華大学の名誉顧問でもあった。

山水画で名高い桂林に住むぼくの水墨画の師匠は、スケッチに訪れた彼と一緒に撮った色あせた写真を誇らしげに見せてくれた。ぼくは中国建国五十周年行事のさい、天安門でお目にかかることになったのだが、緊張のあまり、なんにもしゃべれなかった。

思えば、アジアに惹かれるきっかけは、平山画伯が描いたオリエンタルな表情をした仏像のスケッチ画からはじまる。 さらっとしながらも、揺らぎのある墨線で描かれた輪郭。その輪郭線から、わずかにはみ出る淡いにじみの色彩に強く惹きつけられた。

一九七〇代後半、テレビでは「シルクロード」が放映され、アジアをテーマにした喜多郎や、ゴダイゴの曲が流れていた。ぼくはその時代の影響と、仏教伝来を描く彼の日本画に感化され、スケッチブックを片手に、沖縄経由で台湾航路の船に乗り込んだ。その後は、香港、タイ、バングラディシュ、インドへと旅を続けた。アジアの旅は時を経て、インドからチベットへ、インド哲学から仏教をかじり、中国へとたどりつく。

後になって気づいたことだが、たずねた年を前後して平山画伯と偶然にも同じ場所で風景を描いたスケッチが二枚ある。一枚はインドで描いた仏陀が悟りをひらいたという菩提樹。もう一枚は、チベットで描いたラマ教寺院と背後に見える独特の稜線の風景だ。

「平山画伯と対象物を探す眼力は同じだ!」と、自画自賛してみたくもなるが、スケッチに最適な腰を下ろす場所や、対象をかっこよく描く角度は、おおかた似てくるものである。とは言っても、インドやチベットでは、風景のあるその場所にたどりつくまでがたいへんな道のりだった。ぼくは気力、体力ともに十分な年齢ではあったが、彼の絵画にかけるモチベーションには驚かされる。

さて、日本史をひも解いてみると、日本は政治や経済などの律令制度、芸術や仏教文化を東アジアから吸収してきた。現在、中国には十万を越える日本人が暮らしているが、多くの日本人は、文化も歴史も日本が誇るべきことも、なかなか語れない。日中の間においては、とかく金銭がらみの利害関係だけが取りざたされる。

そんななか平山画伯は留学生の受け入れ、敦煌壁画の保護活動など、東アジアとの文化交流に並々ならぬ力を注いだ。きっとスケッチをしていくなかで、東アジアに日本文化の源流をみつけ、それとともに、日本や東アジアの文化の危機を純粋に感じていたのではなかろうか。世間のすべての人間が彼を評価しているわけではないことも知ってはいるが、平山画伯は日本と東アジアを文化という側面から支え続けた日本人であったと思う。
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by ogawakeiichi | 2009-12-05 06:50 | 南日本新聞コラム
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