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彩遊記

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シンボルについてのたわごと

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本書は複雑系研究者である著者の研究の成果と思索をまとめたものである。その中で、最近興味を持っている「中間層」に関する考察のなかで、シンボルについての記述があったので、わたくしなりに料理して記録する。

さて、シンボルは、それと結びつかれる実世界があってはじめて意味をなす。

このとき、シンボルと実世界がどのような関係をもつのか、それを考えるのがシンボルクラウンディング問題だ。

たとえば、なぜ、りんごというシンボル(りんごという言葉、りんごの写真、りんごの絵画などなど)が、実世界のりんごに結びつけられるのか?

その理由として考えられるのは、実は、意味はシンボルのほうにあるのではなく、意味というのは、身体の動きのなかにあり、運動を介して、はじめて意味というものが生まれてくると考える。

言い換えれば、シンボルを実世界へ結びつけるのは受けての意識が関係していているということだ。

つまり抽象度の高い「りんご」というシンボル(りんごという言葉、りんごの写真、りんごの絵画などなど)を、受けて側が身体性を通して蓋然性が高い「実世界のりんご」のビジュアルに変換するからである。

とくに身体性のもつ知覚(五感情報)のなかで、もっとも優勢である視覚的「実世界のりんご」に変換されるのである。

身体性とは単なる物理的制約のことではない。

生命は自立的に空間の中をうごきまわり、環境を区切っていく。その区切り、あるいは分節化が知覚や認識をつくりだし、空間のなかを動き回るという意味が身体性である。

知覚とは、感覚器官(センサー)と運動能力(モーター)の連なりのなかにある。生命は外に向かって開かれた存在であり、その内と外を結んでいるのがセンサーである。センサーは運動と対になってはじめてセンサーとして機能する。センサーと運動の対がつくるものが、身体化された知覚である。

運動がセンサーを支え、運動~センサーの循環する関係がつくりだすパターンが、われわれの知覚をつくりあげている。

つまり、デザイン戦略的にいえば、あるビジュアル化された統一シンボルを人々の目に触れる(運動)と感覚器官(センサー)が、われわれのシンボルとしての知覚をつくりあげているということになる。

ただ、ここまででは本当のシンボルとはなりえない。シンボルとはその背後に意味がともなっているかどうかだ。

たとえば、「三角形」「四角形」を例にとると、「三角形」「四角形」という概念あるいはシンボルを、エージェントが理解あるいは意識したわけではないからだ。その意味において、いぜんとしてシンボルは生まれない。

もっとも結果として区別は生まれているので、三角形と四角形というシンボルを第三者的に求めることはでくる。

しかし、本来シンボルと呼ぶには、エージェントが自分で生成したシンボルに対し意識的となったとき、それを初めてシンボルと呼ぶのである。

おわかりな。。


それと、複雑系においては、もちろん上記した理論武装、日々精進するデザイン力、それに加え正しい道を突き進む合意さ、これが大切だ。


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いまの大規模で内外が複雑に絡み合ったネットワーク型の生態系に自らを位置づけないと、利用価値もブランド価値も産み出せないようなビジネス環境におけるデザインは、実は合意形成なんかより正しい道を突き進む合意さこそが必要なんじゃないかという考えが頭に浮かびました。
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by ogawakeiichi | 2009-12-12 09:58 | 情報とデザイン
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