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彩遊記

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やってくる偶然

やってくる偶然_f0084105_1252914.jpgときどき、向うやらやってくる客神を感じることがある。来臨感というべきなのか、それはやって来たり、降りてきたりするのだが、オカルトチックなものではない。求めている偶然と、やってくる偶然の鍵と鍵穴がパコッと当てはまる気配のようなものだ。最近ではセレンディピティーと呼ぶのかな。

昨日、K御大の一声に呼応して、K大1号館に参集した多国籍軍を共振させる現場に立ち会う。こりゃあ、生半可ではとても共振できない、それとともに「自発性のパラドックス」に巻き込まれる予感が漂う。

多様性を統一有機体とする方法を模索しながらつらつらと寝床の中で枕元に積んである一冊を手に取った。先月松丸本舗で手にいれた30年前ボスがエディトリアルした「遊」を捲る。ちゃ~~んと、ここにまた、求めていた偶然が向うからやって来たではないか。。

●パフォーマンスとは場所である。
●アグレッシブな空気をつくれ。
●場のイニシアティブをとるなかれ、むしろ中心の場を空(ウツ)にせよ。そのためには、いつも自分を消費しつくしていること。
●始めようと思ってはならない、すでに始まっているという意識で対峙すること。
●久しく忘れ去っていたラディカルな少年性、すなわちルールにとらわれない真の破壊と創造。←オームなんたら教じゃない。。
●戦いはつねに流れのキワやヘリで行うこと。

われわれはなにかを止めたり、打ち切ったり、決断してしまうときのみ勇気を出す。そんな勇気などとるにたらない。続ける勇気、つねに消費しつづける存在学的勇気こそが必要だ。いつだって、すでに始まっている。どんなちっぽけな日常的事態にも、全宇宙が語られてしかるべきであろう。平凡なものの中にこそ決死の覚悟を問い続けること。(遊:虫類誌○形態考より)
↑自発性のパラドックス問題はこのアタリの構えですな。。

※埒外:::K御大とボス、ふたりのコトダマと振る舞いをみていると、40年前、高田馬場あたりで、決死覚悟の共闘をしていたのではなかろうか。。そんな気がする。..
by ogawakeiichi | 2009-12-13 11:44 | 只記録
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