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彩遊記

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日本デザインのツボ

f0084105_1029244.jpgふっと、日本的な「デザイン」って、記憶の「うつろう」「おもかげ」をビジュアル化しているのではと思う。この、「ふっ」という、言葉も実に日本的だ。、「ふっ」は「おとずれ」でもある。

無意識下でうつろうおもかげの、得たいのしれないチャンク情報みたいなものが顕在意識に上がってきた状態を「ふっ」と呼ぶのではないだろうか。


そのチャンクに引きずられて、ぞろぞろとその他諸々の情報が連なる物語のことが「おもいで」か。。

ブランドやデザインは、あるモノのおもかげが「ふっ」と意識のマに上がる回数が多いほど、数寄になるのではなかろうか。そんな気がする。

日本人は、古来、この「うつろい」に独自の情報を感じ、それを歌や絵に編集してきた。すなわち、「ない」という状態と「ある」という状態とをつなげてきた。

「おもかげ」や「うつろい」が日本文化の多くの場面、たとえば能や俳諧に、また水墨山水や近代工芸に、また神仏習合思想や江戸の儒学や国学に、さらには明治大正の詩や童謡などに現れている。

さて、つぎに「間」とはなにか。。
日本では言葉や文字に精霊(スピリット9が棲むと考え、これを「言霊」という。日本の古代語では「マ」といわれるのは、「真」ということである。また「マ」は「2」を意味し。何かと何かが対合されて合体された状態が「マ」というものである。つまり「マ」は本来は不即不離な溶融状態をあらわしていた。

日本人はこの「マ」の破れた状態を「カタ」と呼んだ。「片方」とか「片割れ」の「カタ」で、「片輪者」のことを、この「カタ」を使って表示する。すなわち、「マに至らぬもの」という意味である。マヌケという言い方もある。だから、マは開けるものではなく詰めるものである。

↓以下、文化のことばが、腑に落ちる。。

モノ。
モノは「物」であり「者」であり、また「霊」である。一個のオブジェには必ずモノザネ、モノダネっが生きている
人はそれに幽閉されて、モノ好きやモノ狂いになっていく。

コト。
コトは事であって言である。そのコトの表情にコトガラを読み、そのコトを割ってコトワリを見る。だからコトブキとは、本来は言葉でこそ祝うことだった。

カタシロ。
形代。死者でも生者でもない、祭祀にあたってなんらかの代わりにさせられた物である。最も代表的なカタシロは大小さまざまな人形だった。究極のシュレイクラム。

カタ。
型がなければカタなしだから、あえてカタをつける。そこにサマやフリの様式の前提が生まれる。典型や雛型をつくる。とりわけ雛型がおもしろい。カタチはココ・チと同様のカタ・チ

サマ。
なぜわれわれは手紙に「様」をつけるのか。相手のサマになってみせようとして様をふる。あいてのサマ変わりを尋ねるために様を伺う。サマとは「~のように」ということなのである。

ムスビ。
おむすびは問題である。そこにはとんでもない力がこもる。「結ぶ」とは霊が産出することだ。だから産霊とつづってムスビとよんだ。その男形がムス・コ。女形がムス・メになる。

アワセ。
左右をアワセ、柄をアワセ、記号や象徴や意味をアワセて、文化を編んだ。アワセられなければ日本でなかった。


カマエ。
門構えや面構えは動かないことをもってよしとするけれど、動くカマエがちょっと見逃せない。なぜなら、そこから「かまう」という生世話や商売が、つまりサービスがうまれた。


カブキ。
もっと傾いてしまいたいからカブイてしまった。カブはカブリなどとつかわれるように頭のことをいう。その頭をかしげて狂ってみせる。故意に大掛かりなトランスにいる。

バサラ。
大袈裟だっていいじゃないか。派手に見栄をはり、伊達や風流を争う婆娑羅。つまりカタ破り。けれどもバサラが成立するには、世の中に本格や正統が成立していなければならない。

フリ。
降ったり、振ったりするものがある。人に宿るエネルギーである。気でもある。そこから振る舞いが出る。もっともあまりにこのエネルギーに出会えないと、久し振りになる。


モッタイ。
ものものしい様子がモッタイで、景気をつくろうこともまたモッタイだった。おかしいのは「モッタイない」がもとは不都合の意味だったのに、ありがたいことになったことである。


ワビ。
せつなくてわびしくて、その不如意をついつい侘びてしまいたくなるほどだから、ワビなのである。しかし誰にワビるわけでもなく隠逸するので、紹鴎ワビや芭蕉ワビがでる。

ハナシ。
話し、囃し、放し、
なぜわれわれはハナシを物語るのか。その物語はやがて自立し、転移し、そして譲渡もできる。神話から人工知能なで、そこには万国共通のモジュールが潜む。


オク。
奥が気になる。奥になにかの決定がある。道があり、門があり、庭があって、奥がある。オトズレはこの順に進んでいく。門付芸能もこの順に進んでいいく。奥まで進めれば最高の首尾だった。

ユカリ。
ユカリはほぼ縁のことだ。限界と外側を相互作用させる。そこには中心となるものに対する反逆の編集さえうかがうことができる。


ミエ。
七五三に見得を切るなどどいう。見栄ではない。いくつかの動作や感情が頂点に達してそこで止まる。その見えるさまを、また見るものがある。止観する。つまりはそこで見切られるのだ。

ヒメ
名状しがたい力を秘めるからヒメなのだろうが、これはあくまで女性形。男性形はヒコとなる。ヒはムスビのヒに通じる。白山菊理姫や藤原大刀自の伝承は今日も日本の山々に眠っている。

スキ。
透く、漉く、鋤く、梳く、そして好く。いずれも数寄のはてで、なおそこにこだわって遊ぶスサビのことをいう。それでも実は面とむかわないのが極意なのである。


ヒジリ。
ヒジリは「日・知り」。かつては、どんな村にも終日山や海の気象を見て、その日の意味を知っている老人がいた、その「日知り」が「聖」になった。もとは「霊知り」でもあった。
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by ogawakeiichi | 2009-12-15 10:31 | 情報とデザイン
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