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彩遊記

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たまたま

たまたま_f0084105_1618916.jpg松丸本舗の賑わいは、たまたまなのか、やっぱりなのか。←偶然の必然化だよな~。

なぜヒトは、「偶然(たまたま)」を「必然(やっぱり)」と勘違いしてしまうのか?

我々が日々暮らしていく中で、実際には単なる偶然、つまり「たまたま」そうなっただけなのだが、それに理由があるようについ錯覚してしまうのはどうしてなのか。

たとえば、・空前の大ヒット映画が誕生する・ひいきのチームが20連敗する・宝くじで連続当選する……などなど、「偶然」が支配するこのランダムな世界では、こんなことは当たり前。


でも、われわれ人間は、こういう出来事に出会うと、・すごい映画を作った人は、すごい才能を持っている・監督が悪いから20連敗なんてするのだ・連続で当たるなんて、今私はツイている!……ついついこう考えてしまう。

でも確率などの力を借りてよく考えると、監督の力に関係なく20連敗することは、十分起こりうることなのだ。

きわめて著名な天文学者で物理学者でもあったアーサー・スタンレー・エディントン(1882-1944)はこう言った。「多くのサルがタイプライターを打ち続ければ、大英博物館にあるすべての書物を書くことも可能であろう。」

 エディントンが強調したかったのは、そのようなできごとは実際にはありそうもないということであり、理論的には起こりうるが実際にはありえないことの例としてあげたのだった。



では、こんな不確かな世界で、まっとうに生きていくためには何が必要なのか?本書では、行動経済学、心理学、確率、統計学、物理学……と、「ランダムネス」や「偶然」にかかわる知識なら何でも扱って、この世の根底にある「偶然」の働きを明らかにし、それを認識できない人間のためにツール(確率・統計的な考え方)を提供してくれる。(参考:アマゾン内容案内より)

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不確かなことをめぐっては、世の中に擬似科学やオカルト科学めいたものがけっこうはびこっていて、「偶然」や「不確実」にはどんなルールがひそんでいるかはわからないことが少なくないのに、それをネタにずいぶんあくどい宗教教団や経営コンサルタントやファシリテーターもはびこっている

けれども大衆も不確かなことやトンデモ本は大好きで、それが気になって動いているとおぼしい現象や行動は、迷信から星占いまで、シンクロニシティからセレンディピティまで、どっさり、がっさりあとを断ちそうもない。

ぼくも「偶然」や「不確実」は嫌いではない。それがなかったら、歴史も芸術もない。しかし、それをどう理屈にするかということになると、なかなか出来のよいものは少なくなってくる。うさんくささも拭えない。

だいたい、世の中、何が「たまたま」でおこるかはわからないそのため、何かにつけて「運がよかった」とか「不幸にも」といった常套句が使われる。

「いやー、残念なことでしたね。また機会がありますよ」と言ってはみても、そういう機会(チャンスやオケイジョンやオポチュニティ)が何によってめぐっているのか、実は誰もよくわからないはずなのだ。

ところが、世の中と人生は、たいていその機会の軌道をこそこそめぐっているとしか見えないようになっている。

世間は、平均的なことがおこっている現象にはとくにルールははたらいていないだろうが、何かの著しい現象がおこっていることは、たまたま偶然におこったか、さもなくば何かのコントロールがはたらいているとみなしたがるものだ。少なくとも、そこにはまだ発見されていないパターンが隠れていると思いたがるものだ。

赤い商品を入口の右側の棚に置くよく売れる、あの山はUFOが出やすい山だ、ナマズが暴れると地震がおこるといったことが“信用”される

賭博や株の売買やマーケティングには、なんとか「たまたま」の奥にルールを見いだしたい。できれば、がばがば儲けたい。そこで、みんながいっぱしの確率に手を出すのだが、さあ、それがまことにでたらめだったのである。

本書は、これらの見方がいずれもまったくおかしいということを摘発した。平均的におこっていることも、著しいことがおこっているときも、確率論からみればそれらはたんにそれまで継続しておこっていたランダムな現象の結果だというのだ。(松岡正剛)
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われわれは、「たまたま」も「偶然や幸運だけではおこらないだろうこと」も、実は偶然の介在とはまったく関係ないのだということが、理解しにくい。

われわれは、多くの事態の中にランダムネス(randomness)が作用しているということを、なかなか理解できない。

それは、認知にあらかじめバイアスがかかってしまっているからという。

人々が「見たい」と思っている期待の立場がプロセスに関与してしまうからである。世の中がランダムネスの作用に気が付かなくなる理由の大半がここにある。

作者のレナード・ムロディナウによれば、われわれは過去を再構成する際、もっとも生き生きとした記憶、それゆえもっとも回想しやすい記憶に、保証のない重要性を授けてしまうという。

認知科学は、これを【可用性バイアス】となずけた。

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【可用性バイアス】の好ましくないところは、過去の出来事や周囲の状況に対するわれわれの認識をゆがめることで、いつのまにか世の中の見方をゆがめてしまうことだ。

たとえば、われわれは精神病のホームレスの割合を過大に評価する傾向がある。というのはわれわれは、振る舞いがごく普通のホームレスに出くわしたとき、そのことにとくに注意を向け。たまたま出くわしたホームレスについてすぺての友人に話すようなことはしないが、足を踏みならし「聖者が街にやってくる」を歌いながら目に見えない仲間に手を振っているホームレスに出くわすと、その出来事を記憶に留める傾向がある。

あるいは、スーパーの会計にできている5つの列。もっとも時間のかかる列を選んでしまう確率はどれほどだろうか。黒魔術師に呪われてでもいなければ、答えはおよそ五分の一だ。

そうだとすれば、なぜわれわれは過去を思い起こしては、自分には最長時間の列を選ぶ超能力がある、などと感じるなのだろうか。

それは、ものごとがうまく運ぶときは、注目すべき重要なことがあってもそれは気を留めず、カートにたった一つだけ品物を入れた前の婦人が、肉売場での値札には1ドル49セントと書いてあったのになぜその鶏肉が1ドル50セントなのかで口論をはじめると、そのことが印象に残ってしまうからだ。(たまたま本文より引用)
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これらの出来事は、つまり、過去の経験で何かを語る時には【可用性バイアス】にとらわれた過去を語ることが往々にあるということだ。

過激な議論をするときなど、とくに相手の言う事を聴く以前に、自分の考えが【可用性バイアス】でどの程度歪んでいるのかを冷静に考える必要があるわけだ。←U~NN。。感情が昂ぶるとこれはむつかしいなあ。

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また、与えられたディテールと、頭の中で描く何かが合致すると、シナリオのディテールが多いほどシナリオはリアルに思え、その結果、われわれはそれがより蓋然的であると考えてしまう。しかしその一方で、ある推測に不確かなディテールを付加することは、どんな場合でも、その推測の蓋然性を下げてしまう。。(たまたま本文より引用)
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確率の論理と、不確かな事象に対する人間の評価とのこうした矛盾に、(ダニエル)カーネマンと(エイモス)トヴァスキーは興味を抱いた。


たとえば、「被告は死体を発見したあと、犯行現場を去った」と、「被告は死体を発見したあと、そのおぞましい殺人事件で起訴されるのを恐れ、犯行現場を去った」では、どちらがありそうか。

たとえば「大統領は教育に対する連邦補助を増やすだろう」と「大統領は、全州に対する他の補助を削減することで浮く金を使って、教育に対する連邦補助を増やすだろう」とでは、どちらが蓋然的か。


たとえば「会社は来年売り上げを伸ばすだろう」と「経済が全体に当たり年だったから、会社は来年売り上げを伸ばすだろう」とでは、どちらがありそうか。

いずれの場合も、後者は前者より蓋然性が低いにもかかわらず、後者のほうがよりありそうに聞こえるかもしれない。

カーネマンとトヴァスキーの言葉を借りれば、「よくできた話しは、不満足な説明より蓋然性が低いことがよくある」。ということになる。

そしてもうひとつ【確証バイアス】についてだ。
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われわれが錯覚にとらわれているとき(中略)そしてそのことで言うなら、何か新しい考えを抱いたときはいつでも(中略)われわれはたいてい、その考えが間違いであることを証明する方法を考えるのではなく、それが正しいことを証明しようとする。

心理学者はこれを【確証バイアス】と呼ぶ。【確証バイアスは】、ランダムネスに対する誤解から逃れようとするわれわれの能力の大きな障碍となっている。
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この【可用性バイアス】と【確証バイアス】。人間は結果的にこれらのバイアスに捕らえられやすいという話であるが、誰かがこれを逆手に取って利用しているとしたら...?

たとえば、広告とか、宗教教団や経営コンサルタントやファシリテーターとか・・・


追加;某書き込みにあった『たまたま』の読後感より

しかし純粋に運だけで優れた結果を残すことも、あるいは惨憺たる結果に終わることも可能である。従って良い成績を残したければ、何度もあきらめずにチャレンジすることだ。

もしあなたが有能ならば、何度も挑戦するうちに結果はあなたの能力を示すものに平準化されるだろうし、そこそこの能力だったとしても何百回に1回は非常に優れた結果が出るはずだ。(某経営コンサルタント)

↑ふむふむ。これは経営コンサルの常套句ですね。未来はランダムウォークでやってくることをわかったコンサルならいいですが・・ちょっと付け加えると、これはねえ、チャンスやオケイジョンやオポチュニティのこと。リスクへ向かう心理のベクトルのことですね。外部は必然で出来ているから、オケージョンをチャンスととらえ、内部の偶然を必然化していく。つまりfromのあとのto編集。不確実性(ランダム)の『たまたま』に含有されます。わかるかな~。。
by ogawakeiichi | 2010-01-15 16:27 | 只記録
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