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彩遊記

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ルーマン

ニクラス・ルーマンをはじめて知ったのは、『創発するマーケティング』から連鎖してきた
SFCの井庭先生の講義のなかでルーマンが頻出してきたからだ。

これは、ぼくが常々、もやっと観念していたことの概念化だ。そうだそうだ。うんうん、とうなずきながら。でも一般には見えない、超理解されにくい世界だとも思う。つまり、『』の外にでて、俯瞰しないと見えてこない。

なぜならそれには、フロートしなければならないリスクをひきうけ身体性をともなった、精神の出遊が必要だからだ。←なんのこっちゃ?(笑


多くが、網羅した世界を知ることよりも、リスクをひきうける自由より拘束された安寧を知らず知らずのうちに選択している。だから一見静止したかのように見える世界には目標を定め嚆矢が向くが、本来のつねに変化しつづける動的世界は、あることさえも見落としてしまいがちだ。たとえば、地球が動いていることも。

これは、まあ仕方ない。


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ニクラス・ルーマンの特徴は

世界や社会をつねに複雑系として捉えつづけてきたこと、その世界や社会を形成する根源的な単位を「意味」に求めようとしつづけたこと、その意味を加工編集するものはすべからく「システム」であるとみなしたこと、このことにある。

ルーマンは社会は複雑なシステムであり、そのシステムは意味によって構成されるとみなしたのである。ということは市場も価値も意思決定も、とことん「意味」で構成されるということになる。当然といえば当然のことではあるけれど、社会学者がこのように「システムと意味の関係」を長期にわたってぶらさないでいることは、実はめずらしい。

すでに時代社会は1980年代後半あたりから、生態系の毀損や原発事故やエイズなどの人間社会が生み出したリスクに人間社会自身が曝されるにいたっていることが、あきらかになってきた。そのリスクは国民国家の枠をこえてグローバル化しつつあった。(松岡)
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リスクをひきうける自由より
拘束された安寧を知らず知らずのうちに選択している君へ



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近代以降の社会は、おおむね「真/偽」「法/不法」「統治/反対」「就業/失業」
「支払い/未払い」「貸付/返却」「成功/失敗」「健康/病気」といった二値コードに
よって成り立ってきた。

最近の普天間基地移転をめぐっても、トヨタのリコール問題をめぐっても、景気失業対策をめぐっても、国母クンの冬季オリンピック服装問題をめぐっても(笑)、この二値コードは政府によってもマスメディアによっても間断なく発動されている。

ルーマンは青年期以来、このことにずっと疑問を抱いてきた。のみならず、このように二値コードをもって社会を裁断し、判定することそのことがリスクを生じさせていると見た。二値的な決定プロセスがあやしいのである。多くのリスクはシステミック・リスクなのである。

 ひるがえって、社会というもの、つねに「規範」や「稀少性」や「競争点」を決めようとしてきた。それが市場に競争原理を生み、都市を賑やかにさせ、生活をさまざまな方向に導き、会社を成長戦略に向かわせ、景気や物価を上下させてきた。


けれども、そこではいくつもの矛盾も派生した。たとえば、企業活動や消費者活動が仮に“環境にやさしい”ような方向に進んでいったとしても、そこにはエコポイントなどのような“数値”が課せられる。

また、どんな会社や組織にも、社会の複雑な要素を反映したぶんのコンプライアンスの縛りが、網の目のように課せられる。つまりは社会はエンドポイントの数値の網目によって決定されてきたわけなのである。


これは何をあらわしているかといえば、社会システムの各所に「決定者」とその決定を受ける「被影響者」の範囲があって、それが社会システムをついつい自己決定しているだろうということである。それも、ありうべき社会システムのグランドモデルを想定することなく、ずるずると結果的にそんなふうにさせてきてしまったのだ。(松岡)
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ずるずるとねえ。。

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こには何がおこっていたのだろうか。これが自由主義市場の原則と体たらくというものなのか。それともすべてがまちがいで、だからネオリベラリズム過剰に向かってしまったのか。ルーマンはこの二つの見方ともに当たっていないと見た。

では、なぜこんなふうになってきたのか。このような事態になった社会システムについての理論が欠乏していたせいだったのである。そこにリスクの介在を認めておかなかったせいなのである。

そこにリスクの介在を認めておかなかったせいなのである。
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つまり、リスクをひきうけず、分散させた。リスクという危険をひきうけず、まったくレイヤーの違う責任論に転換させた。


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社会システムはコミュニケーション行為で構成されているのではない。社会システム自体がオートポイエティックな動きをすることが、さまざまなコミュニケーションの行為的属性になっている。

こういうコミュニケーションは再帰的コミュニケーションであり、自己言及性をともなっている。そして、ここが肝要なところになるのだが、リスクの本体はこの構造の隙間やきしみから生まれるのである。どのように生まれるかとといえば、コンティンジェントに生まれる。

 コンティンジェンシー(contingency)という言葉は、そのもっている意味がきわめて重要なわりには、とてもわかりにくい。よく「別様の可能性」とか「機能的な等価性」とかと訳されたり、説明されるけれど、これではとうてい掴めまい。

辞書的な定義では、事件や事故が偶発的におこるときに、「まさかこんなことがコンティンジェントにおこるとは思わなかった」というふうに使う。また、その偶発的な出来事によって付随しておこる一連の出来事が、ことごとくコンティンジェントなのである。
それゆえここは不確実なこと、不確定なこともコンティンジェントなものとしてすべて含意されている。いいかえれば生起するかもしれない可能性もコンティンジェントなのである。

つまりここには「偶然の本質」がかかわっているとともに、「生起の本質」もかかわっている。それがコンティンジェンシーである。
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やってくる偶然と、むかっていく偶然の鍵と鍵穴が、ポコッと嵌った。(ogawa)

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ルーマンは、オートポイエティックな社会システムには、リスクがコンティンジェントにかかわっていくと見た。システムがシステムの次のふるまいを、自分がかかえもった多様性のなかから選択することそのことがコンティンジェントであって、かつリスキーなのである。

これはシステムが外部環境や内部環境に適応したからではない。そうではなくて、システムが次の様態を求めてシステムの“分出”をはかったのだ。システムの次の制限に自己準拠したのだ。

つまりは、システムは複合的構成に向かうために自身をコンティンジェントにし、オートポイエティックなふるまいを保持しているということなのだ。(松岡)

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どこまでもスパイラスに広がる世界に自己と世界がとろとろに融合して溶け込んでいくイメージかな。世界は自己であり、自己は世界である。(ogawa)←なんか、宗教っぽい表現だけどね。

パチパチ。よくぞ可視化してくれました。
by ogawakeiichi | 2010-03-04 08:31 | 只記録
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