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彩遊記

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「共生」と「共創」

中国人観光客到来の時代が本格的にやってきた。三月下旬の大型船来鹿に備え、ぼくの周囲もなにかと慌ただしくなってきた。

じつは、大陸からの観光客は一昨年あたりから、韓国、福岡、長崎や鹿児島を結ぶ東シナ海クルーズで、いくどとなくやって来てはいたのだが、一般にはそれほど注目されてこなかった。

しかし、時代が極まったせいなのか、メディアの影響なのか、なにかと大陸から来る富裕層の買い物ぶりや、長崎の受け入れぶりが報道されるにつれ、ぼくの周囲でも、鹿児島へやってくる観光客のことが話題にのぼりはじめた。

そのためぼくも、長年にわたる大陸での教員の経験から、生活習慣の違いや、中国について話す機会を与えられることが増えてきた。

ぼくの中国での生活環境は、周囲はすべて中国人。勤務先は旅行系の大学だった。
観光開発と、観光ポスターと工芸を学ぶ学生に、ブランドやデザインについての講義をしていた。

振り返れば、さして上手くもない中国語で、よくも十年もの長期にわたりやってきたものだ。ちょっとしたコツがあるのだが、それはそのうち書こうと思う。

さてさて、不思議なことに日本と中国の間を幾度となく往来していると、到着した飛行機を降りた瞬間、その国のモードに、パチッとチャンネルが入れかわるようになる。生活習慣バイリンガルといったところだ。

中国に到着すれば、中国のスイッチがはいり、無意識に声も大きく、動作も大きくなっている。

ぺちゃくちゃと大声でしゃべりながら、冗談を言い合いながら大勢で食べる食事は、ときに笑いが止まらない。

買い物では店員と、時にバトルをやりながら商品をしつこいくらいに確認し、箱から取り出し、開封し、確認してから購入する。ちいさな丁々発止も、それはそれで買い物の楽しみでもある。しかし時間に追われると、なかなかこれもできない。

なんの予備知識もない、日本人から見ると、声の大きさや、喜怒哀楽の振る舞いが無作法にもみえるのだが、大陸では極々普通のことである。

その反対に日本に到着すると、うまく表現できないが、声にも動作にも、日本人の余白みたいなものがでてくる。

ぼくのなかでは「混沌とおもしろさの中国」そして「余白と静けさの日本」といったところだ。

日本と中国を行き来して暮らす間、元首相の靖国参拝や、餃子に農薬が混入した事件のときは、なぜか日中の両方から苦言をいわれ、最近では、東アジアの時代の予感を受けてか、「先見の明があったのだね。」ともいわれる。

ぼくはなんにも変わらないのだが・・・。

どちらにしろ、日本人は儒教の考えが染み込んだ中国人の思考回路を、中国人は西洋型教育と詫び・寂びからなる日本文化の独自性を理解して、「共生」そして「共創」してほしいものである。 

本来、東アジアにある多様性の価値観をもって。
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by ogawakeiichi | 2010-03-05 17:28 | 南日本新聞コラム
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