人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

彩遊記

ogawakeiic.exblog.jp

グローバリズムという妄想

グローバリズムという妄想_f0084105_10542349.jpg 「グローバリズム」という言葉から受ける印象は、世界くまなく平等に行き渡るというイメージだが、それはまたプロパガンダでもある。「歴史と社会は市場の要求に仕える必要はない」.

==========
ここから

 (1)グローバル自由市場は普遍的文明を強要する啓蒙思想である。その強要はコミュニズムやファシズムに匹敵する。民主的資本主義とか自由資本主義の名を借りてはいるが、その正体は単一的普遍主義なのだ。

 それゆえ、その作用は国家を弱体化させ、社会をばらばらにする。とくに伝統的な社会制度と慣習をひどく弱体化させる。そして、そのかわりに「新たな不平等」か、もしくは「新たな自由放任」(ネオ・レッセフェール)を助長する。IMF(国際通貨基金)、WTO(世界貿易機関)、OECD(経済協力解発機構)はそのための機関だった。


 (2)グローバル資本主義はたしかに理性的ではあるが、決して自己制御的ではない。投機的であり、内在的な不安定をつねにかかえる。自由市場主義を方針とした各国政府がかかげた目標は、その多くが失敗した。これからも失敗するだろう。

 だから、グローバル資本主義が「小さな政府」と「規制緩和」と「民営化」を促進したからといって、自由主義だとか新自由主義だとかの「自由」を標榜する権利はない。もしもリベラルな国際経済秩序というものがあるとしたら、そんなものは1914年の開放経済までのことか、もしくは1930年代に非業の死を遂げたのだ。


 (3)そもそもグローバル資本主義の基礎は、ピューリタン革命からヴィクトリア朝初期までの「囲い込み」(エンクロージャ)が用意した。「囲い込み」がイギリスを農村社会から市場社会に変えた。それが自由市場主義に向かったのは、穀物法の廃止と救貧法の改正以降のことである。

 サッチャーが実施したことを見れば、イギリスのグローバル資本主義がこの路線の上にあることは明白だ。労働組合の削減、公団住宅の奪取、直接税の減少、大企業の民営化は、市場にエンクロージャの機能を明け渡しただけのことなのだ。政府がそれによって得た名誉があるとしたら、言葉だけのネオリベラリズムの称号ばかりだった。


 (4)グローバル資本主義の生みの親は、どう見てもアングロサクソンによるものだ。アングロサクソンは「合意」のための「契約」が大好きな民族だから、その合意と契約による経済的戦略を非アングロサクソン型の国々に認めさせるためには、どんな会議や折衝も辞さない。その象徴的な例が、たとえば1985年のプラザ合意だった。

 こういう合意と契約が、各国に押しつけがましい構造改革を迫るのは当然である。ニュージーランドやメキシコや日本が、いっときではあれそのシナリオに屈服しようとしたのは、不幸というしかない。もっとも、それほどにグローバリズムが“最後の勝利の方法”に見える幻想に包まれていたのである。


 (5)グローバル資本主義はアメリカとドル金融機関が促進したけれど、世界に広まったものは必ずしもアメリカのコピーとはかぎらない。むしろその変態と変種がはびこった。それゆえ、グローバリズムの実態は国際的な混乱をよびさます。ところが、アメリカにとっては、アメリカ以外のグローバリズムは変態と変種の巣窟なのだから、これはアメリカが文句をつけるにはとても都合のいいことなのだ。

 アメリカが優秀だとしたら、そしてアメリカが狡猾だとしたら、それはアメリカがグローバリズムのためのコストを世界に分担させる秘訣を知っているということにある。あげくのこと、アメリカの自由市場はリベラリズムを非合法化してしまった。


 (6)グローバル自由市場は多元主義の世界や国家とは合致するはずがない。どうしてもグローバリズムを無批判に受容したいというなら、国民国家(ネーション・ステート)の内実を実質的に無意味にしてしまう覚悟をもつべきだ。そのうえで企業は無国籍や多国籍になればいい

 しかしそうなるのなら、国民国家はすべてのオプションが不確定であることを知ったうえで行動したほうがいい。国家こそがリスクにさらされているのだから。むろんアメリカも損をしている。その最も顕著なことは、アメリカにおける家族の紐帯が失われていっていることにあらわれている。もはやアメリカの夢見る家族たちは、ハリウッドとディズニーランドとホームドラマにしか出てこない。


 (7)グローバル自由市場こそが各国の生活を繁栄させたと感じているのなら、それはまちがいだ。企業の外部契約による労働力供給に頼って、雇用の不安定がどんどん増していくことは、むしろブルジョワ的生活がどんどん不安定になっていくことだと認識すべきなのである。

 つまりは、「グローバリズム」と「文化」とは正確な意味で対立物なのである。とくにウェブなどのコミュニケーション・メディアに乗った情報グローバリズムは、その国の地域文化を破壊し、その痕跡と断片だけをグローバリズムがあたかも拾い集めたかのようにふるまうことによって、各国の国民を自国文化から対外文化のほうへ目を逸らさせる。


 (8)グローバル経済は、人間の深い確信を希薄にし、組織に対して不断の疑いをもたせる。

 そのため、都市や社会やメディアがグローバルな装いをとればとるほど、各人の心の蟠りは鬱積し、各組織はコンプライアンスに縛られ、衣食住の管理問題ばかりが日々の生活を覆っていく。これは資本が自由に世界を流通するのに逆比例しておこる。


 (9)グローバル自由市場は、減少しつづける天然資源をめぐる地政学的な争いのなかに主権国家を対立させる。

 たとえば環境コストを想定してみると、当該国家や当該企業がその環境コストに敏感になろうとすればするほど、その国家や企業の地政学的・経済地理学的不利が「内部化」されてふりかかってくることになる。これに対してグローバリズムの指導者のほうは内部コストを「外部化」しうる。こんな不公正な話はないはずだ。


 (10)グローバル資本主義が新自由主義や新保守主義と結びついたことは、自由や平等や正義の議論を最大限にあやふやなものにさせた。思想や理論、科学や数学さえ、グローバリズムの災いにまみれたのだ。

 とくにフランシス・フクヤマやサミュエル・ハンチントンにおいては、歴史観についての錯覚すらおこることになった
by ogawakeiichi | 2010-04-18 10:54 | 西洋史&思想
<< 多国籍合宿 漢の整理 >>