人気ブログランキング |
ブログトップ

彩遊記

ogawakeiic.exblog.jp

イノベーション

テオリア、プラクティス、ポイエーシスを検索していたら、奥出先生のサイトがやってきた。

そのまえに、テオリア、プラクティス、ポイエーシスを、Mはこう説く

======
テオリアでは神や自然を観相し、プラクシスでは人間の行為の全般を考え、ポイエーシスでは詩人や職人の表現技術を問題にする。そういう学問の計画のための分類領域をつくった。

学問ふうにいえばそういうことになるが、システム工学的あるいは編集工学的にいえば、この3つはそれぞれ3つのOSがあるということなのである。アリストテレスならこの3つのOSをまたぐ思索もしそうなものだが、それはしなかった(そこがアリストテレスを難解にしている原因で、ぼくには柔らかいアリストテレスを発想できる原因だった)。

代わりにアリストテレスは、このそれぞれのOSに乗るキラー・ソフトをいくつか開発するほうに賭けた。それが範疇学(カテゴリアイ)と論理学(ディアレクティケー)と、そして形而上学(メタフィシカ)というものである。

アリストテレスが範疇学を動かすためにあげた編集素は、ぼくには編集工学を構想するときの、いろいろのヒントとなった。
 
翻訳が変かもしれないが、その編集素とは、「実体、量、性質づけ、関係、場所、時、状況、所持、能動、受動」というものだ。なかで場所はローカスである。このローカスからローカルという言葉が生まれる。
 
この編集素は、主語というものがどのように述語づけられるかということの、アリストテレスなりのフックである。ITふうにはさしずめアリストテレス・ブラウザーの10機能といったらいいだろうか。
====



デザイン思考の道具箱で、インタラクティブデザインを紹介したが、鹿児島大学での講義はこの周辺から、フェアトレードブランドのシステム構築へと向かうだろうな。その後はリアルプロジェクトへ、ぜひなだれ込みたい。

それには多国籍合宿スタッフのような得体の知れない自己投企のエネルギーが必要になってくる。今回はここ

歴史は10人の覚悟と5年の歳月で動かせる。吉田松陰の松下村塾なんてたったの2年。

昨今は評論的なデザイナーが多く、その多くが高みの見物。岡目八目さへもなりきれないリスクを引き受けない輩に辟易していたのだが。。。久々にヒット、メンバーか!?。。。

日中友好協会から講演依頼。はい、わかりましたと気軽に返事していたのだが、ところが送られてきた名簿には、来賓・鹿児島市長。特別顧問、小林・原口とある。。あちゃ。



=================
奥出さんのサイトより気になる抜粋


イノベーションには方法がある。イノベーションを生み出す人やイノベーションされたアイデアを第三者が評価するメカニズムではなくて、イノベーションを生み出す集団をマネージメントすることが大切だ。これがイノベーションの当事者として関わってきた人の実感であり、またデザイン思考としてまとめられている考え方である。僕の本『デザイン思考の道具箱』ではこのあたりを詳しくまとめている。イノベーションの手法あるいはプロセスは最近では Ideationと呼ばれている。アイデアを思いついて簡単なプロトタイプをつくるまでのプロセスである。この方法は斬新であり非常に効果的だ。昨年もこの授業から生まれてきたコンセプト「フラヌール」が評判になり、国際学会のみならずWeb系のニュースでも取り上げられた。すこしまえだが、当時の学生たちがつくったPileusというコンセプトは世界的に評判になった。短期間でIdeationを行う方法を知らなければイノベーションの競争について行けなくなると断言していい。

ところがIdeationをしかるべきファシリテーターのもとで行うことを覚えると、いくらでもアイデアは出てくる。それを粘土や段ボールや寸劇で「モデル化」することもできる。だがそれから先に進まない。きちっとしたサービスや商品にならないのだ。こどもの工作とかわらない。この問題はスタンフォード大学で最近発足したd.Schoolでも同じだ。Ideationしたあと、どのようにコンセプトをプロトタイプとするのか。ここが大きな問題である。そんなことを考えていたら、先日スタンフォード大学のME310というコースを担当しているスタンフォード大学の博士課程の学生がKMDでコースの説明をした
。Ideationの方法をメカトロニクスエンジニアリングと組み合わせている。アウトプットもすばらしい。さらにびっくりしたのは、アイデアをつくったらグループで一年間集中して作業をして成果を出すのだという。この方向でないとコンセプトがプロトタイプとなり社会に出て行くことはないな、とおもった。そういったわけで、デザイン基礎はIdeationだけではなく、それを実際にプロトタイプとして社会にもっていくリアルプロジェクトにするにはどうすればいいのか。



日本はものつくり大国と言うが、それは まったくの誤解である。部品を作らせたら世界的な小さな企業がある。小さいと行っても売り上げは200億とか300億である。そうした工場に部品を発注し ているのが日本の大企業だ。企画会議で何を創るか考え、技術のロードマップを決めて、開発の仕様書を書き、いくつもの企業に発注をする。これが当たり前だ と思っているだけではなくて、最近では自分で作ろうとすると、仕様書を書いて発注するようにと上司から注文が入る。あるいは考えて創っていると本社から子会社、といっても1000億を超える売り上げがあったりするが、に出向になったりする。この形がいつ日本に定着したのか不思議なのだ。もっともトヨタは 70年の終わりに本社が発注して組み立てるだけになって、付加価値が生まれないことに気がついて、ものつくりのコアの部分を自社の内部に抱えた。そのまえ に切り離されていた部門はいまでは巨大企業になっている。

日本は1970年代の後半まで、本社がものつくりの試行錯誤をしていた。新しいアイデアやイノベーションを元にものつくりをすれば大抵は失敗する。その失敗をのりこえて、たまにものが出来る。するとそれを関連工場にわたして製造する。これが本社工場の役割であった。またこうした活動のリーダーが松下であれば 唐津一氏であり東芝であれば西堀栄三郎氏であった。さらには日本生産性本部にイノベーションを考えるセクションがあった。

いったい80年代に何が起こったのだろうか?いまそのあたりを調べているのであるが、筑波科学博を頂点として一気に日本からイノベーションを製品やサービ スにする、さらには産業にする力が消えていく。この問題をどうにか突破してみたいと試行錯誤している。

続いて第2期の博士課程の学生とのミーティング。途中で昼食を取る場所に移動して話を続ける。堂島は気分のいいレストランが広場に面していて気持ちがいい。彼女は非常にすばらしいプロダクトをすでに持っている。それをリアルプロジェクトとして展開する方法について話をするが、彼女の話はその手法であるマーケティングやブランディングの話にそれがち。たしかにそうした方法をつかってリアルプロジェクトにするのだが、マーケティングやブランディングを学ぶわけではない。また自分のプロジェクトなのだから、マーケティングの専門家やブランディングの専門家に自分がなるよりも、リアルプロジェクトのプロデューサーになろう、とコメント。マーケティングやブランディングは銀の弾丸ではないよ、というわけである。

そのあと大阪に本社のある製薬会社の会長とのミーティング。「で、奥出君のこの考えはどこからきていますか」と質問をうけた。「IdeoのいまのCEOのティモシー・ブラウンと15年前にワークショップを準備したときに思いついて今に至ります」と述べたところ「ちょっと前に彼らに仕事を発注したが、わりとものをつくる会社という感じで、君の方はもっとインタラクティブでサービスによっているよね」との話。確かに。プロダクトデザインやグラフィックデザインからデザイン思考を考えるのはもうおしまいにしようと今更ながらに思う。

。イメージを使って思考する領域が社会制度と結びつくだけではなく、脳科学とも結びつき、また脳科学の中でミラーニューロンなどの発見が社会に関係する、といったようなことをバーバラ・スタッフォードのイメージ研究を詳細に説明しながら行う。詳細は例によって省略するが、いい質問があったので、その質疑応答を答えも含めて書いておきたい。

質問1:身体性とインタラクションデザインについて

インタラクションデザインはコンピュータと人間との関係を研究するHCIという分野から出発した。この分野は長い間人間の認知能力と物理的なデザインとの関係に焦点が当たってきた。したがって、人間の認知を研究しながらインターフェイスをデザインする流れとできあがったデザインを人がどのようにつかうかのユーザビリティの研究に焦点が当たっていた。だがユビキタスコンピューティングの登場によって従来のHCIの方法ではうまく人間とコンピュータとのやりとりがデザインできないことが指摘され始めた。この流れを最初に形式化したのはスタンフォード大学のコンピュータサイエンスの教授であるテリー・ウィノグラードである。彼は現象学の考え方をインターフェイス設計に取り入れた。彼が考え方を大きく変えるあたりは『コンピュータと認知を理解する―人工知能の限界と新しい設計理念 』に詳しい。その後行っていった様々な試みは『ソフトウェアの達人たち―認知科学からのアプローチ』に詳しい。ちなみに邦題の認知科学からのアプローチというのはこの本の内容と全く関係のないタイトル。原著の表紙は白い歯車を中心にえがかれていて、いうまでもなくハイデッガーの歯車を意味している。アンチ認知科学の本である。

さて、ハイデッガーの現象学はヒューバート・L. ドレイファスの解釈を通してコンピュータでのインタラクションデザインの領域に入ってきた。彼の『 世界内存在―『存在と時間』における日常性の解釈学 』が基本である。ハイデッガーは毀誉褒貶のある20世紀最大の哲学者で研究者の数も多く、ドレイファスの解釈はインタラクションデザインの設計くらいにしか役に立たないと悪口をいう哲学者もいるが、まあそれはそれとして、この本はなかなか面白いし、僕は好きだ。またドレイファスは強烈な人工知能研究者批判でも知られているし、翻訳も多い。人間と機械との関係に現象学的に言うと「生きた」関係を考えていく。自然に意識をしないで使う道具としてのコンピュータが必要なのだというわけだ。また意識して眺めたときにはそのメカニズムがわかるようになっていることが好ましい。

ウィノグラードの弟子たちは現在でも多方面でインタラクションを研究しているが、この現象学的なインタラクションデザイン設計論に明確な体系を持ち込んだのがPaul Dourichである。彼は2001年にWhere the Action Is: The Foundations of Embodied Interactionを出版する。古典力学的な古い科学方法論しか持ち得ないHCIの研究手法とデザイン手法に対して強烈に批判を加える。人間が何かをさわるという触覚にインタラクションする感覚と、友達や家族とコミュニケーションをするときに体験する感覚の両方が同じものであり、それが現象学でいうところの身体性 Embodiment であるとした。そしてその状態を世界内存在つまり自分は世界と切り離しては存在できないという状態であるとした。ここから新しいデザインの方法を探る必要性を提案したのである。

同じ頃に都市や建築空間とデジタル技術を組み合わせる方法に現象学的な視点を導入する必要性を提案した人がいる。Malcolm McCulloughである。彼は2004年に Digital Groundを発表する。そのなかで全く同じことを述べており、注で、これはDourichの考えをまねたのではなくて、同じ時期の同じことを考えていたのだ、と述べている。身体性のあるデザインをおこなうためには、何かを意識して計画するのではなくて、実際に作ってみる実践が必要なのだと彼は言う。ユビキタスコンピューティング環境が整ってきた現在我々はまず手を使って作ってみてそれが社会のコンテキストのなかでどのようになっていくかを検証して、また次を作っていく必要がある。本のタイトルのデジタルグラウンドとは建築で言う基礎をデジタル技術で創る、という意味である。

彼らの研究によってインタラクション研究は大きく舵を切った。現在ではインテル、ノキア、フィリップス、GEなどが現象学的方法によるインタラクションデザインをおこない、社会システムと人間と機器とのインタラクションを同じ視点で捉えているのだ。

質問2:メタ世界認知について

我々が何かをみているときに、その仕組みの背後に何らかのシステムがあると感じるときがある。だが、そのシステムはどこにあるのだろうか。これはサイバネティクスの登場とも関係するし、量子力学的な世界観とも関係するなかなか難しい話であるが、僕はこの質問があったとき、質問者に高校生の数学3の微積分が理解できますか、と聞いて、出来るというと次のように説明している。今回は質問者はわかりますと答えた。

微分するとは次元を一つ下げることである。それは Mappingという言葉に現れている。3次元にサイコロにどこかから光をあてると2次元の平面に影が映る。でもそれだけだとサイコロだとわからない。別のところからまた光を当ててみる。別の影が出来る。こうして何回か影があればなんとなく3次元の立体の形がわかる気がする。これが三次元から二次元への微分だ。次に平面に映った影を微分してみる。すると点が決まる。二回微分しているから偏微分である。この点の位置から2回積分をしてもとのサイコロになるだろうか。答えはなるときもあればならないときもある。実際にはほとんどならない。次元を下げていくうちに確率過程に遭遇するからだ。でも僕たちは日常において微分的に世界を意識していることも積分的に世界を意識していることもある。両方を同時に行っていることもある。これが我々の認知はメタ世界認知だということで、微分回路的認知である予感と兆候や詩と積分回路的認知すなわち余韻と索引あるいはプルーストの『失われた時を求めて』の文字による記述になる。イメージは微分的積分的であり兆候ー索引的な表現が可能である。

ちなみに確率的ロボティックスという分野では自分で地図をつくりながら難しい道を一人で(一台で)進んでいく、というロボットの設計を上記のような考え方で行っている。ところで、上記の説明がわからない学生にこの面白さをどのように理解させればいいのだろうか。これもKMDの課題である。

質問3:デザインについて

デザインを思考の上流過程に用いるという意味がわからない、という質問。これはマスプロダクションとマスメディアの方法として部分をあつめて生きた全体性をつくりだすというデザインの行為の意味を、大量に作られたものを人間の生活の中に埋め込む行為として限定してしまったためである。ヴィクター・パパネックは『生きのびるためのデザイン Design for the Real World: Human Ecology and Social Change』において、デザインは商品を売る手段だけに限定してはいけない。デザインはもっと広く社会のために貢献するべきだ、と1971年に主張している。だが、社会を見る視線や感受性がデザインの専門教育の中で教えられているか、というとそうではない。その一方で社会システムを「デザイン」するべき立場にいる人たちはデザインの実践ではなく、計画をたてることを「デザイン」としている。それではうまくいかない。システムは生き物なのだから。この問題をシリアスにとらえてデザインの実践をする人間を一人でも多くKMDから出していきたいものだ。

質問4:メディアについて

活字では不足しているので映像、あるいは音というメディアが加わるのですかという質問があった。慶應大学は18世紀のフランスで生まれた『百科全書』を所蔵している。ディドロ(Diderot, Denis, 1713-1784)とダランベール(Alembert, Jean Le Rond d’, 1717-1783)がその編集に当たった。文字で事象を記録していると不足感があり、絵や音符を付け加えた図版があることを説明したことへの質問。このあたりは昔平凡社の雑誌に書いた記事があるので後ほど探し出して紹介したいが、ポイントはテキストで不足だから絵とかが加わるのか、という話である。

文字テキストに不足な情報あるいは、分かりやすくするために絵や音が加わるのか、という話だ。これは聖書という文字テキストの神聖さを主張したプロテスタントの考えにつながる。だが、そもそも5感で感じるものはそれ自体で全体性をもっていて、特定のメディアに限定することがおかしい、というのがメディア論の始祖といって言いマーシャル・マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』で述べたことだ。身体性の問題とも合わさって非常に興味深い。この説はミルマン・パリーのホメロス研究が出発点である。 ホメーロスの詩は文字テキストとして、ヨーロッパ文学史の重要な記念碑であった。だが、それを口承文学を文字に写したものだ、というのがミルマン・パリーの説だ。この考えはその後ハーバード大学のアルバート・ロードの『物語詩の歌い手』に引きつがれていく。マクルーハンは5感で感じる詩が文字テキストにだけなったために退屈でつまらないものになったと説を展開する。文字テキストが機械と結びついてグーテンベルク印刷機が登場するわけである。ちなみに慶應大学にはグーテンベルクの聖書も稀覯書として所蔵されている。

もともと5感で感じることが単一メディアに絞り込まれていることが問題だとする彼の議論と共に、初期のメディア論で知られていたウォルター・オングは『声の文化と文字の文化』で、文字メディアの優越は普遍的な原理ではないとした。面白いのはこうした複数のメディアの融合こそが正しい姿で、テキストメディアの優劣が近代を生み出し、それが電子メディアの登場で崩壊して、人間本来の姿に戻っていくという予言者的な言説を生み出したのがマクルーハンにしてもオングにしてもカトリック教徒の学者である点だ。

こうした全メディア的な視点からすると、テキストが至上で、それを理解できないものがイメージを使う、という考えは受け入れがたいものになる。一方で、日本の分析哲学の研究者には「馬鹿だけがイメージをつかって思考する」と学生がマルチメディア的表現をするとあしざまになじる人もいるが、人間にとって本質的なメディアがテキストなのかマルチメディアなのかは、非常に奧の深い議論で簡単には決着が付かないのである。もちろん脳科学や視覚の研究はマルチメディア的な方向が人間の本来の姿に近いという方向を向いているものが多いが。

質問5:本質について

最後に本質とはなんですか、という質問が出た。なかなか面白い。分析哲学と現象学に分かれてしまっている現在の哲学がどこで融合をはかるのか。僕は個人的には、物事の背後に本質があり、その本質は合理的に組み立てられた厳密な構築物である、という本質論者の立場をとっていない。それは本質論者である師のプラトンの袂をわかって、自分の道を探していたアリストテレスの考えにも関係する。アリストテレスの思想の背後には、自然現象からその仕組みを考えるテオリア、人間の行為を考えるプラクシス、そしてものを創り出す創造をあつかうポイエーシスがある。僕はこの話を慶應大学の社会学研究科大学院の修士の一年生のときに高橋潤二郎先生の授業で聞いて、愚かなる目的論者と科学哲学の授業の中で言われていたアリストテレスのイメージが大きく変わった。とくにアリストテレスを研究したわけでもギリシャ語がよめるわけでもないが、アリストテレスに関する英語の研究やエッセイをそれ以来おりにふれて読んできた。アメリカのプラグマティズムを知るにいたり、瞬間瞬間にも永遠が潜んでいることを実感する幸福といったことも知った。本質を問いかけるのではなくて、本当の感覚、生きている感覚を今確認する実践と創造、つまりはプラクティスとポイエーシスを大切にしていきたい。


さて、ピアジェを継承しているパパートは、教育にコンピュータを導入する方法の子供の知能や発達に関しての理論を構築した。子供の空間概念や保存概念などが発達に応じてどのように変わっていくかを実験的に明らかにしていった。また知能の発達を数学モデルを使って理論化した。もっとも、彼の方法に関しては割と早い時期から批判があった。それは知能の問題を個人の認識能力として議論していたことである。客観的で正確な認識能力を人間は能力として先天的に持っているというデカルト主義を前提に、それを正しく発達させる合理的な教育方法が大切だとしたのだ。彼のアプローチに対して社会的な側面が必要なことを主張していた研究者はレフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキーの理論をつかって反論を試みていた。ヴィゴツキーについてはこれからも何度も言及していくことになる。

発達心理学と一部の脳科学が早期教育の有効性を主張して、オバマ政権でも政策として取り入れられている。だが、早期教育が必要とされている「知能」とはなんだろうか。知能を計る客観的な尺度としてIQが知られているが、これが当てにならない。1980年代にニュージーランドの心理学者であるフリンが、先進工業諸国の人々の平均知能指数が1950年代から一貫して上昇し続けていると報告した。これを「フリン効果」と呼ぶ。何故この現象がおこっているのかはわかっていないが、IQが人間の知性ではなくてなにか別の情報処理を測定していた可能性がある。幼児教育をコントロールして人間の知性を伸ばそうという教育方法は正しくないのではないか?と考える人たちが登場してきた。こうした新しい流れをまとめてしっかりと紹介している『生涯発達のダイナミクス』を著した鈴木孝氏は生涯発達心理学では、発達心理学のように限定的な知性をあつかうのではなくて、複合的な知性、アリストテレスでいればテオリア、プラクティス、ポイエーシス、がお互いに共同して知性を構築していくあり方を説明している。

今回準備している教育プロジェクトはいずれプレス発表を行うと思うので詳細はそのときに紹介するが、パパートをこえる新しい教育メディアを考えてみたいと思っているのである。ピアジェはその晩年に初期の考えからよりダイナミックな知性を認める方向にむかっていたと鈴木氏は紹介している。こうした研究は教材だけではなくて、評価方法も同時開発する必要がある。また社会的な知性であるプラクティスをみる手がかりになりそうなミラーニューロンの発見などもある。脳科学的な基礎知識も活用できそうだ。
by ogawakeiichi | 2010-04-22 09:44 | 只記録
<< 貞心尼と良寛 フェアトレード関連資料 >>