記号論から
バーバラ・スタフォード、
高山宏と渉猟していたら、
ここに出た。
記録しておく。
■高山宏「豚のロケーション」(『終末のオルガノン』所収)より
そもそも<近代>全体が、実存的「豚(マラーノ)たち」による<定位>の試みの総体ではないか、というので、僕は『メデューサの知』という一冊を仕上げてみたのである。(中略)視覚と言語、総じて<表象>と呼ばれる営みについて、これほど高い自意識に達した文化圏はたしかに十七世紀オランダをおいてないように思われる。そこが商業の帝国であったことと無縁ではないだろう。
スピノザ同時代にはまだ一国家としてろくな体もなしていないオランダは、あらゆるレベルにおける
漂遊(ノマド)性が他のヨーロッパ諸国におけるよりよほど高い「ポップな」水準に達している。
だから亡命の「豚たち」のたまり場となった。亡命ユダヤたちの多くが商人であるのはなかなか面白い。
故郷喪失を<実体>喪失と言い換えれば、彼らが実体なき記号論的営みとしての商業になぜあれほどの才を得たかがわかる。
イベリア半島を追われた沢山の隠れユダヤ教徒がネーデルランドに流れ込む。レンズを磨き、地図を描き、座標軸を駆使しながら、亡命者=はずれ者たちは世界をひたすらに見る。地球の反対側まで船を送りこみ、「発見」を繰り返しながら、数値の編み物と化した世界を見続ける。
その果てにチューリップ・バブルを嚆矢とする、信用肥大経済の崩落を繰り返す。二十世紀を通過した我々は全くこの業病を克服していない。
「そう、もう一度言おう。ぼくらも立派に豚なのだ」というのが「豚のロケーション」の末尾のセリフだ。