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彩遊記

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スキタイ≒匈奴

スキタイ≒匈奴。
やはり、こうなってるのかな。ステップロード繋がりだ。

日本語がウラルアルタイ語系に属するのも、河内平野に、スキタイの痕跡っぽいのが残るのも、鹿島神宮の鹿も、こここらあたりの延長でしょう。とアブダクション。。


匈奴とスキタイ~均質な文化と伝統・伝承を共有する集団

【コラム】 2010/01/20(水) 11:49
  古代中国に最大の脅威と恐怖を与えた、北方の騎馬遊牧民の大連合勢力である匈奴。後漢時代に衰退はしたが消滅したわけではなく、西晋は匈奴によって滅亡しているし、五胡十六国の混乱時にもなお活躍し続けた。現代でも匈奴族の人々が居住する地域があると、かつて私は陝西省博物館の先生から伺ったことがあり、また内モンゴル文物考古研究所の方も「自分は匈奴族だ」と自慢していた。

  一方、黒海からカスピ海の北の草原に勢力を誇った、やはり騎馬遊牧民の連合体であるスキタイ族。かれらはアケメネス朝ペルシア帝国やギリシア人と深く接触していた。その武器であるアキナケス剣の鞘に施された黄金装飾の意匠を見ると、固有のモチーフあり、オリエント帝国風あり、ギリシア神話ありで、南方文明を巧みに取り入れていたと同時に、かれらが遊牧生活のみならず、シルクロード・草原の道の交易に携わり繁栄していたことを物語っている。

  さてこの匈奴とスキタイについては、それぞれ洋の東西の「歴史の父」が興味深く記述している。すなわち、かたや司馬遷の『史記』、こなたヘロドトスの『歴史』である。また幸運なことに、どちらも碩学による名訳で読める。江戸時代に背景を持つ、近代日本の文化水準の高さに敬意を表するばかりである。ではそれを引用する形で紐解いてみよう。

  “匈奴は、……家畜を放牧しつつ転々と移動した。……水と草を追って移動し、城郭とか定まった住居はなく、耕作に従事することもなかった。しかしそれぞれの領地に分けられていた。…… 子どもは羊に乗ることができるころから、弓を引きしぼって鳥や鼠を射た。少し大きくなると、狐や兎を射、それを食事とした。士卒は弓を引く力があれば、[戦争の際には]すべて甲冑をつけた騎兵となった。……形勢有利と見れば進撃し、不利と見れば退却し、平気で逃走した。”(注記1)

  “……スキュティア民族は……彼らを攻撃する者は一人として逃れ帰ることができず、また彼らが敵に発見されまいとすれば、誰も彼らを捕捉することができないようにする方法を編み出したことである。それも当然で、町も城塞も築いておらず、その一人残らずが家を運んでは移動してゆく騎馬の弓使いで、生活は農耕によらず家畜に頼り、住む家は獣に曳かせる車である──そのような民族にどうして戦って勝つことはもとより、接触だにすることができよう。……スキュティアの国土は牧草に富み水も豊かな平原で……”(注記2)

  この二つの記述における、匈奴・スキタイ両者の特徴の共通点を列挙してみると、

・匈奴:家畜を放牧しつつ転々と移動。水と草を追って移動。
・スキタイ:家を運んでは移動してゆく。家畜に頼り。国土は牧草に富み水も豊か。

・匈奴:城郭とか定まった住居はなく。耕作に従事することもなかった。
・スキタイ:町も城塞も築いておらず。生活は農耕によらず。

・匈奴:弓を引く力があれば、甲冑をつけた騎兵となった。
・スキタイ:騎馬の弓使い。

・匈奴:形勢有利と見れば進撃し、不利と見れば退却し、平気で逃走。
・スキタイ:攻撃する者は一人として逃れ帰ることができず、誰も彼らを捕捉することができない。

  多少の前後はあれ、司馬遷もヘロドトスも、まったく同じことを書いている。司馬遷は紀元前2世紀末~紀元前1世紀初にかけての前漢人、ヘロドトスは紀元前5世紀のギリシア人であり、かれが司馬遷の書を見ることはありえない。また張騫がようよう大月氏にたどりついたり、李広利がやっとのことでフェルガーナを征服した、そんな時代に生きた司馬遷が、ギリシア語の文献を手に取れるはずもない。

  つまり、この二人の観察眼と選択眼、つまり歴史家/編纂者(デスク)としての能力が、いかに優秀かつ適格であったかということだ。社会的外見だけでなく、モラル・習俗まで、最も特徴的なところを、過不足なく抉り出している。

  そして両者の記述から、モンゴル高原の匈奴と黒海北方のスキタイが、均質な文化を保持していたということが、はっきりと分かる。もちろんこれは、考古学の方面からも裏付けられる。草原のシルクロードというのは、文化伝達と形成のハイウェイであったのである。

  現在では、匈奴といいスキタイといい、なにかひとつの言語や民族から成り立つ集団ではないという認識が一般化しつつあるようで、その名も象徴的な呼称であって、ある種の伝統性と権威性を帯びていたらしい。そのあたりはいかにも、広い草原を駆けめぐり、口承伝承に頼る遊牧民らしいところだ。インドの「ムガール」帝国は、「モンゴル大ハーン」の子孫という権威をよりどころにしたし、あるいは「トルコ」という名にも、そうしたものがまつわるだろう。だから、かつて中欧を席捲した「フン」も、匈奴(フンナ)とはまったく同一民族ではないかもしれないが、均質な文化と伝統・伝承を共有するそれぞれの部族として同一称呼を名乗っていた、あるいは周辺からそう呼ばれ意識されたということで、なんら矛盾は出ないことになるのである。そしてそこからさらに私が無茶な想像を膨らませると、「キ」ョウ「ド」もス「キ」「タ」イも、じつは同じ言葉が、洋の東西で大きく隔たって記録されたのかもしれないとすら思う。

  現に、前漢の青年将軍霍去病に打ち破られて捕虜となり、後に武帝に取り立てられた匈奴の王子である金日テイ(テイは石へんに單)は、当時の寸法で身長八尺二寸というのだから雲つくような大男で、容貌もいかめしかったと書かれているし、むしろスキタイを思わせ、今の西欧人同然であったと考えてもおかしくない。また霍去病の陵墓に置かれた「馬に組み敷かれる匈奴の石像」は長髯と高い鼻を持ち、北魏~隋唐の明器の武官像は、のっぺり顔の文官に比して、猛々しいぎょろ目と美髯でこちらを威圧する。

  スキタイ族も、こうして東アジアにまで(匈奴? ソグド?)、しぶとく生き残っていたのだろうか。

注記1 司馬遷『史記列伝 四』の内、匈奴列伝第五十、小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳、岩波文庫より
注記2 ヘロドトス『歴史 中』の内、巻四、四六節~四七節、松平千秋訳、岩波文庫より

(執筆者:濱田英作 国士舘大学教授  編集担当:サーチナ・メディア事業部)
by ogawakeiichi | 2010-05-08 10:50 | 只記録
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