これまでの既存のカテゴリーの隙間にある、フレームとフレームのあいだの『あたらしくしつらえた場』に席が与えれる機会が多くなった。←TOでやるべきなんだが、いまのところはFROM。
これは僕自身が、越境者としての自覚からくることが一番大きく影響してると思うのだが、こういうことはなにかをバサッっとやったとき、ドサっとやってくる。
プラトンの言うところの【想起】や、白川静がいうとことの【興】という概念の嚆矢と、向こうからやってくる偶然が、パチッ、パチッとスパークし、あちこちに撒いていた鍵や鍵穴がカチッ、カチッと嵌りだし、あたらしい領域へと相をかえる相転移へ入ったのかも知れない。
スピリチュアルで言えば「宇宙との共振」であり、サイエンスでいえば、偶有性(セレンディピティー)とか、ダブルコンテンジェンシーとか言うのだろう。
第三者がしつらえた場で、与えられる問題を検討、解決、評価していくその過程から、のんべんだらりとした状況にくさびを打ち込むような【あらたな問題】を発見し、その問題につきあうような場面も増えてきた。
あらたな問題とは、『与えられた問題がしつらえられた場』つまり、仕掛けた側にあるというのがやっかいなのである。ざくっと言えば自己矛盾が起きた制度の問題。
たとえば、時代が変わるためには、人間が変わらなければならないが、制度的にこれができないのである。←もちろん全部ではない。。
自己矛盾にある場の制度自体を、命がけの革命覚悟でいじれないとすれば、しつらえられた場を、共振させ、響き合わせ、したてなおしていくのが賢明な大人の選択だろう。←なんと。なんと。。
ところで、場とはなんなのか?
「場の思想(東京大学出版会)」を書いた、
清水博という生命学の巨匠がいる。ぼくは一度だけ、皇居脇、九段にあるギャラリーで遭遇したことがあるのだが、恐れ多くて声も掛けれなかった。←ああ、もったいない。
清水博は、場について次のように言う。
『場とは何かときかれたときに、私は次のように答えることが多い。「あなたの体をつくっている細胞の一つを想像してください。その細胞があなたの生命(あなたの体全体に宿っている生命)をどのように感じるでしょうか。あなたがその細胞になったつもりで考えてください。そのときあなたが感じるもの、それが場なのです」わかりやすく言えば、場とはこの場合は自分を包んでいる全体的な生命の活き(はたらき)のことである』
人間というものも、細胞の身になって考えたとき、多種多様な共存者が存在するひとつの場である。つまり制度を変えていこうと思うのであれば、内側に入り込んでしなやかに揺さぶり、その揺さぶりが共振を始め、大きなうねりとなったたとき、新しい領域へと転移していくのではないのだろうか。←甘いか。。命がけの革命しかないのか。。なんとなく漢方と西洋医学の処方箋の違いに見えてきた。。
その、共振へと向かわせる推進エンジンはステレオタイプではあるが「五感を震わせるような〇〇」ということになるんだろうな。。