さて、昨日の続きだ。
ぼくのイスラムとの最初の出会いは、バングラデッシユ。つぎは、インドとパキスタンが領土争いをしている、カシミール。現在、カシミールは入域できない。。入域できなくなって、もう何十年。。。
イスラムは。まあ、一口にいってすごい、強烈。。←なにがすごいって、そりゃ~行かねば。。かも。。
きょうは、振り返りを兼ね、イスラムがスンニ派とシーア派にわかれたところからはじまりはじまり。。
ムハンマドの死後、イスラム教は共同体の指導者としてカリフ(後継者)を選出した。アラブ人はカリフの指導のもとに大規模な征服活動を開始した。
このことをジハードという。
体の良いジハードという名のイスラム教徒の侵略は、東方ではササン朝を滅ぼし、西方ではシリアとエジプトをビザンツ帝国からうばい、多くのイスラム教徒であるアラブ人が、家族をともなって征服地へと移動した。
しかし、まもなく後継者あらそいがはじまる。カリフ権をめぐる争いだ。
ムハンマドから数え、アーリー(のち、暗殺)までの4代を正統カリフと呼ぶ。
第四代カリフ、アーリーが暗殺されると、彼と敵対していたシリア総督のムアーウィアーは、661年ダマスカスにウマイヤ朝をひらく。
これが、ウマイヤ朝(主要都市:ダマスカス)から続くスンニ派。
もう一方が、ムハンマドから第四代アーリーと続き、そのアーリーの子孫だけが共同体を指導する資格があるとするシーア派。
現在も続く対立の構図である。
どこの世界構造もそうであるが、時は流れているもので安定などない。そこには二点分岐、三点分岐、二点集合などの離合集散の編集が繰りかえされていく。
そう、イスラム教も例外ではない。
コーランには、すべての信者は平等であると説かれている。
しかし、『ウマイヤ朝は聖戦(ジハード)で征服した征服地の人々に、コーランの教えではなくウマイヤ朝の政策押し付けている。』これって、コーランの教えに背いているでしょう。!と言い出した者たちが出現する。
つまりウマイヤ朝による支配を批判するものがでてきたのだ。
このような人々は、ムハンマドの叔父にあたる子孫であるアッバース家の革命運動に協力し、750年にアッバース朝を開く。アッバース家は肥沃なイラク平原の中心に円形の首都バクダットを造営してアッバース朝の基礎をかためていく。
それまでのムハンマド時代と正統カリフ時代に聖戦(ジハード)で征服した領土のなかに、イスラムのコーランの教えを厳守する、正統カリフとしてのアッバース朝をバクダッドにつくっていく。
シーア派のアッバース朝がバクダッドに建国されると、スンニ派であるウマイヤ朝の一族は、現在のスペイン、ポルトガルにあたるイベリア半島へと逃れる。
そして彼らは、756年にコルトバ、(グラナダ)を首都とする後ウマイヤ朝を建国。
この王朝はアッバース朝に対抗する政治をおこなったが、バクダッドを中心に発達した学問や文化を積極的に吸収し、8世紀のイベリア半島コルトバ(グラナダ)に高度なイスラム文明を生み出した。
バクダッドのアッバース朝は、ハールン=アッラシードの治世中に黄金時代を迎えた。しかしその没後から帝国内のエジプト(トゥルーン朝)やイランには独立の王朝(サーマン朝)がつぎつぎと成立し、カリフの主権がおよぶ範囲は縮小していく。
第四代、アーリーの子孫だけが共同体を指導する資格があるとしたシーア派のなかでも、過激な一派であるファーティマ朝は、10世紀初頭に北アフリカでおこり、969年にはエジプトを征服して首都カイロを造営した。
この王朝は建国のはじめから、カリフの称号をもちい、これまで属していたシーア派アッバース朝の権威を否定するまでになる。イベリア半島のスンニ派の後ウマイヤ朝も、ファーティマ朝に対してカリフの称号をもちいたので、イスラム世界はもうたいへん。
3人のカリフがたちならぶ分裂状態となった。
さらに、ここから、イラン人の軍事政権ブワイフ朝が946年にバクダッドへ入城。カリフからイスラム法を施行する権限を与えられ、いよいよイスラムは新しい変革の時代へとはいっていく。
きょうは、ここまで。。