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彩遊記

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海岸線の歴史

海岸線の歴史_f0084105_11521478.jpg松本健一が、仙石さんと東大で席を並べたことは知ってはいたが、正統右翼っぽいと思っていた“松ケン”が菅政権の内閣参与にいたことは、『原発の周囲・・・・住めなくなる発言』を巡り、メディアが騒いだことで知り、かなりタマげた。

だからといってどうということでもないのだが、個人的感想だが、松本健一は國士なはずだ。

東アジア史に嚆矢が向いたぼくの周囲には松本健一追っかけファンもいて、内輪では松本健一より“松ケン”のほうが通りが良い。あっ、そうそうこれを出版しているミシマ社もナカナカ。地震と原発騒ぎで京都に疎開していたが、いまは本来の自由が丘にもどったはずだ。

さて、彼の著書『海岸線の歴史』から

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日本は「海岸線」の異常に長い、世界有数の国だ。国土面積でいえば日本の25倍近いアメリカの1・5倍、同じく26倍の中国の2倍以上にも達する海岸線を持っている。それにも関わらず「海岸線の歴史」を書いた本はこれまでまったくなかった。

1853年のペリー来航以来、日本がどう開国し、国内の変革をしていったか、その革命の歴史を追った本でもある。

松本は、まず、日本人の東洋内にあった精神が、ペリーによる開国によって西洋にも開かれていったのではないかと考えた。

開国が日本人の精神をどう変え、国の形や政治体制をどう変えて行ったか。イデオロギー的な意味合いではなくて、もっと文化的、生活的な意味での変化、その生活の場や風土の形そのものも同時に変わっていったのではないかと考えた。

ペリー艦隊の来航から、それに続く明治維新によって、日本の政治体制は徳川の幕藩体制から、天皇を中心とする明治政府による国民国家体制に代わる。松本ははこの頃から「日本の海岸線の形態が大きく変わっていったのではないか」と思うようになっていく。

その考えのきっかけとなったのがペリーが乗船していた船艦だ。彼らが乗っていた洋船は、排水量が2450トン。当時の日本のもっとも大きな千石船でも、100トンだから、じつに25倍もの大きさだ。

船の構造も日本の北前船とはまったく違う。外洋航海のためにつくられた洋船は、甲板と竜骨があり、ビヤ樽を横にしたような構造。

それに対し日本の北前船が利用していた港は、瀬戸内海の鞆の浦のような、外海と直接は接せず、入り口のせまい、円形の入り江のような浅い港が中心だった。ところがペリー艦隊は、そうした港のなかに入ることができなかったのだ。

彼らは浦賀に来たときも、常に海岸線から2~10キロ離れていた。つまり、洋船が停泊できる港には、10メートル近くの水深が必要だった。そのときから日本の港は、鞆の浦のようなお椀型の船による国内交易を前提とする時代から、ビヤ樽型の洋船による諸外国との貿易を前提とする時代へと転換があったわけである。

ペリー艦隊は最終的に、徳川幕府に、横浜、神戸、函館、長崎、新潟という5つの港の開港を要求する。しかし、なぜそのような港が必要だったのかは、今までの歴史書に書かれていない。

香港というのは、アヘン戦争で清国に勝利したイギリスが、南京条約を結んだことで手に入れた港。しかしそのときになぜイギリスが香港を要求したのかは、これまで中国史や東アジア史でも書かれたことはない。しかし松本は実際に香港の港を見て、その理由を突き詰めていく。

香港の港の背後には、標高500メートルぐらいのビクトリアピークがある。そこに登れば港を全部見渡せるようになっている。これは長崎の港も同じだ。つまり、当時のイギリスの軍人や貿易商人は、港を全部見渡せるところを必ず軍事的・貿易拠点とし、居を構えるようにしていたのだ。

それは敵が港に入ってきたらすぐに大砲を撃って撃退するためであり、いち早く貿易船を見つけるためでもあった。

紅茶や香辛料を積んだ交易船が港に入ってきたときに、一番に見つけることができれば、最初に駆けつけていち早く交渉をすることができる。軍事防衛のためでもあり、貿易のためでもあった。

と、そう考えた。

香港島は当時、島の人口が2000人、九竜半島も足して8000人。それがいまは800万人の巨大都市。同様に、ペリー来航当時の横浜村は、人口わずか800人。対岸の戸部村を合わせても2000人しかいなかった。それが今では、横浜市の人口は350万人。1750倍に跳ね上がり、日本第二の巨大都市となっている。

つまり現在の世界的な港湾都市である香港も横浜も、その時代を境に人口が急増しているのだ。

古い地図を見ると、現在の横浜駅は海のなか、その先の「税関の内側(内陸側)」を意味する「関内」という京浜東北線の駅も海中。税関があったところはまさに埋立地で、葦が生えている湿地帯。江戸時代まではまったく使われることのなかった湿地の土地が、急に外国に向かって開かれることになり、どんどん埋め立てていって海岸線を海に押し出していった。

このように、ペリー来航の衝撃というのは、西洋文明に接触するという意味でのウェスタンインパクトであると同時に、日本の港湾にも劇的な変革を迫るものでもあった。

そして港、ひいては海岸線の変化はその後、日本人の暮らしや生活意識をも大きく変えていった。


日本の海岸線をあらためて数字で見ると「諸外国にくらべてこんなに長いのか」とびっくりするが海岸線が長いと思われている中国もアメリカもじつは大陸国家だ。とくに中国は海に接しているのが、東シナ海に面したところだけですから、国境線の1/10しかない。また中国の場合は、海岸から1万キロほど内陸に入らなければ山は無い。

日本は沢山の島からできていて、岩手の三陸のようなギザギザのリアス式海岸も海に接するように山がある土地が、あちこちにある。隣の村に行くのにも険しい山を越えねばならないような場所では、海から船で行ったほうが楽なため、そのような交通形態をとっていた地域も少なくない。

しかし、そういう地形は中国にはない。つまり中国のほとんどの人には、その精神風土のなかに海がない。アメリカも同じだ。

中華料理も、上海や香港の料理以外は海のものはなく、干しあわびや干しなまこなど、全部乾燥したものだ。日常生活のなかに海があるという感覚は日本人に独特なものなのだ。

神代の時代につくられた出雲大社のご神体というのは、1メートルぐらいある大あわびだ。ふだんは見ることはできないが、昔は外国人が来ると見せていた。

ラフカディオ・ハーンが、それを見たときのことを書いている。大昔、出雲大社に辿りついた海洋民族は、海のなかで一番美味な大あわびを豊穣のしるしのご神体として拝んだのだろう。祈りによって豊漁を祈願し、海の民族だからこそ、海のなかで見つけた大きな不思議なものを崇拝したわけだ。

基本的に日本人は、古代に海を渡ってきた人々が、日本列島に住みついた民族だ。だから自分達の祖先も海の彼方にあると考えます。神様も海の向こうにいる。これはギリシャも同じである。ギリシャも島が一杯ある国で、エーゲ海に浮かぶ島を渡って辿りついた人々がつくった国ですから、神殿はほとんど海の方向を向いている。

自分達が渡ってきたもともとの故郷の方を向いているのだろう。

日本が中国やアメリカに比べて2倍以上の海岸線を持っている、島嶼国家であることを改めて認識し、二千年来、海岸線とともに生きてきたにも関わらず、その民族の知恵や感情というものを、わずか150年ほどで失いつつあるのである。


引用参考→ここ
by ogawakeiichi | 2011-05-08 11:52 | 日本史&思想
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