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彩遊記

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建築大師

昔、昔お世話になった「さるさる日記」が停止になるそうで・・過去に南日本新聞連載原稿をここで保存しておいたのですが、こちらへ移しておきます



●建築大師=7月7日南日本新聞掲載=

●建築大師
オレンジ色の太陽が、華南の大地にゆっくりと落ちはじめる黄昏前。公園の池越しに、奇峰を望む木蔭のベンチに座る。目の前の自然が織り成す静粛とは裏腹に、走り回る子供たちと、野芝に座りポーカーに一喜一憂する大人たちの少しばかりの喧騒の中、日本から持って来た文庫本を読むのは、至福な時間だ。 

インターネットが普及したとはいえ、アジアな時空へ、ススッと持ち込め、一寸のミスマッチの中で読む日本語の活字は妙に脳裏に刻まれる。就寝前にゴロゴロしながらからウトウトと心地よい時間へ誘ってくれるのも文庫の活字だ。日本出国前日に、背表紙のタイトルだけで、興味の沸いた文庫
本を、だだっと買い集め、スーツケースの隙間にぎっしり詰めるのは、いつもながらの習慣だ。
 
その中の一冊に、建築家・安藤忠雄著『建築に夢を見た』がある。わが校の環境美術系の学生たちはもちろん、こちらでは彼のことを『世界建築大
師』と賞賛している。

わたし自身、安藤忠雄のシンプルで力強い造形に心惹かれてはいたものの、彼の創作エネルギー体をもっと知りたいと思ったのは、瀬戸内海・岡山県直島でアメリカ人芸術家、ジェームス・タレルとのコラボレーション『南寺』を見てからだ。“極限まで剃ぎ落とした安藤建築”が“静粛なタレル
の光のアート”を、程なく包み込み、淡白で美味な日本料理を頂いた感覚だった。

コラボレーションを、日本語に訳せば共同制作ってことになるのだが、相手がアーティスト同士の場合、そう簡単には問屋が卸さない。 絶えず相手の主張との緊張関係を余儀なくされる。押したり、譲ったりしながらひとつのモノを作り上げていく共同創作活動だ。

わたしの安藤イメージは、若い頃、世界各地を歩きまわり、プロボクサーのライセンスを持ち、大阪弁で建築思想を連射しながらグイグイ押してくる、高卒の東大教授。“グレートな難波の機関銃”だった。信じるものは自分の目”と言い、饒舌で気の短かそうな彼に、共同創作のコラボレーションは似合わない世界だと思っていた。この本を手にしたのは、背後にそういう理由があったからだ。 “

ひたすらな対話”をつみかさね、対話が多ければ多いほど、作品から奥深い魅力が発光すると彼は言う。“ひたすらな対話”との一言に不意を突かれた。曹洞禅の道元が“只管打坐”なら、安藤の“ひたすらな対話”は“只管対話”おなじ修行僧じゃないか。      

極限状態での可能性の追求が、本当の意味での創造だと語る。寝食を忘れ、死に物狂いで自分の求める生き方を追求しながら、ひたすらに建築に挑む話は、まるで“建築界の正法眼蔵”だ。 

この本は、ひたすらな対話を通して、彼の思いを理解する周囲と共に、建築に生命を吹き込むまでの過程で綴られている。異文化の中で、ちょっといじけて、対話を忘れそうになったとき、創作で迷いそうになったときの良質な一冊だ。

<終わり>
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by ogawakeiichi | 2011-06-23 08:22 | 南日本新聞コラム
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