アナログ放送からデジタルに変わるのをきっかけに、テレビを見ない生活に挑戦しよう! と最後まで粘ってみた。
とはいっても、家族がいるとそれぞれ見たい番組はあるもので、不条理と思いながらも、ついにデジタルワイドに替えることになる。
意志の弱さもさることながら、替えてみればこれはこれでなかなかいい。
より鮮明になった画面から、ワールドカップ優勝のなでしこジャパンと、中国新幹線脱線事故の話題が流れている。なでしこジャパン関連ニュースは、大震災以来続くなにかと晴れない気分をスカッと爽快にさせてくれた。
かたや中国新幹線での脱線事故は、事故処理方法や新幹線の特許問題のみならず、中国でのキャラクター、パソコン、家具ブランドの「パクリ」問題にまで及んできた。
朝、昼のワイドショーではパクリの話題になると、ゲストのコメンテーターが薄ら笑いを浮かべている。その顔を見ていると、なぜか、原発やら放射能やら国内政治のごたごたまでも忘れさせてくれた。
「ニセモノ」や「パクリ」の話題について、だれもがその情報を共有するにつれ、中国人の中でデザイン教師としてどっぷりと暮らしたことのあるぼくは、個人の感想を求められることもしばしばだ。
大陸での生活で、頻繁に使う言葉のひとつに「ジャー」ということばがある。ニセモノという意味だ。買い物では、ホンモノかニセモノかの判断は自己責任。
ニセモノをつかまされたら、仲間からからかわれ、自分も笑ってあきらめる世界があった。
どちらかというと一般の人々は、ニセモノをニセモノと知りながら買うことのほうが多い。
だからといって許される話ではないのだが、うがった見方をすれば、ニセモノがメディアにのって騒動が起こるたび、そのブランドにとって宣伝効果は抜群で、本物の存在感を増していく。
「パクリ」については、中国の美術教育を通して思ったことがある。それは、東アジア、とくに中国伝統の書画の学び方だ。
見て、まねて、覚える「臨模」という方法が、デザインの世界でも色濃く残っているのではということだ。
デザインは模倣を経て、その中から方法を学び、新しい世界をつくっていくのだが、とくに中国の田舎では模倣から抜け切れず未熟なままのデザインで終わることが実に多い。
本来、新しいかたちのデザインは、ベースにあるものをまったく違うものに磨きあげていくのだが、それが足りない。
メディアが「パクリ」として報じるのは、かたちのベースがメジャーすぎるのと、それを編集デザインする力不足で、おおもとが見えてしまっているからだ。
デザイナーの未熟。ただそれだけのことなのだが。
(デザイナー、タイトルカットと挿絵も)