なんとなく体調がすぐれないと思っていたのだが、その原因がなんとなくわかった。
桜島のドカ灰攻撃に連日やられて、いつもは鹿児島市内を暑さをものともせずに徒歩で動きまわっているのだが、それができない。あいにく車での移動である。そのあたりが、どーも、身体リズムを微妙に微妙に狂わせているのかも知れないにゃあ。
さて、さて、匈奴のつづきだ。
匈奴は、まず組織のすべてが左右対称的で、左右に賢王、大将、大都尉、大当戸をおく。そのシステムは鮮卑の拓跋部に移行して、やがてはモンゴル帝国に受け継がれていく。
白頭山の戦いから劣勢に立たされた漢帝国は、7代目武帝のときに反撃にでる。それが北東アジア史上屈指の50年におよんだ、「匈奴・漢戦争」である。
匈奴は天山の南タリム盆地のほうへ勢力をのばすのだが、漢帝国にとってはここを抑えれるともう西域経営ができなくなる。そこで7代武帝は張騫を大月氏へ派遣して西域を調べることを命じる。
その結果、衛青と霍去病(かっきょへい)に匈奴を討たせることにした。
しかし痛み分け。
そのうち前漢が滅び、王莽の新がおこるが、これまた20万の兵を率いて匈奴軍と戦うのがだ、これも失敗。なかなか中華帝国、遊牧民を牛耳れない。
そのうち、漢と同盟関係を保とうとするグループと、そんなもん放っといてさらに西へ進もうというグループに軍団を分けてしまう。
これを杓子定規でいえばいわゆる「匈奴の東西分裂」ということになる。
匈奴の東西分裂というのは、あくまでも漢の立ち位置からの見方だが、匈奴は東西にわかれ、東匈奴はさらに北匈奴と、南匈奴にわかれた。
これを機に、やっと漢(後漢)は西域経営にもどることができた。
班超によってパミール以東のオアシスを把握できたのである。
さて、匈奴系の南匈奴はいったん後漢に臣属することになり、北匈奴はモンゴル高原を西へと移動する。2世紀にはシル河を渡り、カザフの草原を動いているうちに、歴史の文献からその姿を消していく。
しかし、そこに現れたのがフン族だ。
このフン族が南ロシアからドニエプル河を渡った。
5世紀になるとフーナと呼ばれる軍事集団が北インドのほうにもあらわれた。それはのちにエフタルとよばれる。
はたして北匈奴とフンとエフタルは同一系の種族なのかはいまのところわかってない。