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彩遊記

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遊牧民から見た世界史5

中国、江蘇省の常熟市と薩摩川内市の国際交流事業が先月末20周年ということで、記念品のデザイン的は相談を受け、市国際交流センターにある交流展示室の壁が、パカーンと空き、総領事の表敬訪問を受けた時、みっともないので絵を飾って誤魔化して?(笑 との依頼を受けたりしていたのだが、昨夜その絵画を撤去にいった。

市の広報誌に「小川景一作品展」と広報され、そんなつもりじゃ~。おいおい、あちゃ~であった。


なかには、絵を鑑賞するというより、観覧者名簿に名前を記入するのが重要な方もいて、記帳を忘れて再度行かれた人もいたみたいで。。。川内高校同窓の皆様には動員やらなにやらで、随分とお世話になりました。ぺこっ。。

ところで、遊牧民ブログのつづき。

きょうの話はちょっと、すごいぞ!!


さて、中国は、後漢のあと、魏蜀呉の「三国志」の時代を経て、「八王の乱」に突入するのだが、ここに浮上したのが南匈奴の末裔、劉淵だった。

劉淵は、冒頓の末裔で、単于王朝の流れ者、その劉淵こそが晋の司馬炎や司馬哀を山西匈奴集団を操って助けていたのだ。

さらに4世紀になると、「五胡十六国」という読み解くことがなかなかやっかいな時代にはいるのだが、ここに登場するケツやキョウや鮮卑たちもいずれも遊牧種族たちで、どこかに匈奴の名残りを感じさせていた。

こうしてこの混乱期に、するすると力強く頭角をあらわしてきたのが鮮卑の拓跋部だ。

まあ、中国マニアでは拓跋鮮卑のほうがとおりがイイ。

このあと東ユーラシアの主権を握るのは、の拓跋鮮卑でありその連合体なのである。

たしか拓跋鮮卑である独孤信の家系が、隋と唐とそれにつづく細かい王朝になっていた。

おまけに武川鎮軍閥(ぶせんちんぐんばつ)という集団がある。

武川鎮とは北魏前期の首都・平城を北の柔然から防衛する役割を持っていた6つの鎮のうちの一つで、その武川鎮軍閥が中国南北朝時代の西魏・北周、および隋・唐の支配層を形成していた。

↑ここ重要ね。中国のオモテの歴史から抜け落ちている。


スキタイやサマルタイやサカ(塞)はイラン系の言語を話す遊牧民の一群で、古代ペルシャ語を話した。おそらく月氏もそうだ。

これに対して匈奴はアルタイ系の言語で、のちのモンゴル語やトルコ語を形成した。まとめて「チュルク・モンゴル系」という。

チュルクとはトルコ系のこと。鮮卑はこのチュルク・モンゴル系である。

五胡の多くがここに属し、その拓跋鮮卑の連合体の一部が中国に入って北魏を建国した。

北魏はのち、東魏・西魏になり、さらに北斉、北周と名前をかえて魏晋南北朝時代をつくり、ついではその一部が変わり身しながら隋・唐というふうにすりかわっていったのだ。


うわお~、ついに中国の秘密がバレた!
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by ogawakeiichi | 2011-09-16 10:56 | アジア史&思想
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