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彩遊記

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鎌足は豊章か?

f0084105_63237.jpg昨夜は薩摩焼15代沈壽官氏と語りあった。2~3ヶ月に一度だが、深夜にまでおよぶダベリングは、気がつけば10年を越えた。

彼は古代アジアから現代アジアまでの歴史、政治、民族をつないで語れる、数少ない友人のひとりなのだが、イタリア留学の経験もありヨーロッパを含めたユーラシアの歴史にも強い。。(蛇足だが司馬遼太郎は彼の仲人)

さて、そのなかで話題になった一つに、北魏の平城と奈良の平城の関係性がある。

これは、話しだすと3日はかかるという代物で・・・(笑.

まずは手始めに、奈良の平城京からふりかえっていきたい。

平城京は藤原不比等が構想をねったと言われている。藤原不比等の娘、宮子は、文武天皇婦人となり、もうひとりの娘の光明子は聖武天皇の皇后となり天皇家に深くくいこんだ。

藤原不比等の父親はいわずとしれた中大兄皇子(天智天皇)の盟友である藤原鎌足。

これがアヤシイ。

鎌足は辰巳の変で、中大兄皇子とともに蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅ぼした。

日本書紀は、天武天皇が編纂を命じ、舎人の親王が編集を主宰し、770年に完成したものであったが、神代から持統天皇までを編年体で記録している。

国生みの話し、仏教導入の蘇我氏と物部氏の争い、乙巳の変、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱など、平城京設立直前までの「日本国」建国までをめぐる内容の歴史書である。

しかし、この日本書紀にはいくつかの不可解なことがあるのだ。

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第一に、鎌足の出自が明確でない。

第二に、鎌足は軽皇子(孝徳天皇)のごく簡単に近づいているが、なぜそれができたのか。

第三に、大化の改新以降、蘇我氏の宗家を滅ぼして以来、鎌足がなにをしていたのが、記述がない。

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鎌足が蹴鞠の会で、中大兄皇子(天智天皇)に近づいたのは彼が31歳で、中大兄皇子は20歳。

鎌足は10歳あまりも若い中大兄皇子を説得し、最高権力者の蘇我入鹿を暗殺する計画を実行し入鹿の父蝦夷を自害させた。その後、鎌足は内大臣になったのだが、何をしていたのか記録にはない。

鎌足が再び登場するのは百済救援にむかった倭の水軍が白村江で大打撃をうけ、百済王朝が663年に滅亡した翌年、来日した唐使・郭務宗(かくむそう。。宗は左にりっしんべん)(※なななんと、つまり、当時の倭なのか日本なのか実にアイマイな時期。じつは唐の占領軍が来ていた。)この場面に鎌足は出現する。

朝廷が百済救済にさしむけた最高司令官は豊章である。

日本人ではなく百済の人だ。

その彼が、どうも鎌足だったのではとアブダクションされるのだ。

百済の豊章が鎌足であればスッキリ解決することがたくさんあるのだ。

豊章とは人質として来日した百済王義慈の皇子である。

鎌足(豊章)が来日した年齢は17歳。



つづく・・・
by ogawakeiichi | 2011-09-29 06:07 | アジア史&思想
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