昨日のブログでは藤原鎌足を百済の皇子・豊章と書いた。このあたりは以前はトンデモなように言われていたのだが最近はなぜか、この手の情報が、有識者から漏れ聞こえる。
わたしがトレースのもとにして、自己変換しているプロトタイプは静岡県知事である川勝平太氏の論文だ。
NARASIA 東アジア共同体という平城遷都1300年記念の論文集にある。(※この論文集、後付にはわたしの名が記載された貴重な本でもある。)←ちょい、自慢(笑
おっと、話がずれてきた。
さて、さて、当時、ときの百済の現地リーダーは福信である。
豊章(藤原鎌足)は663年、福信の大歓迎を受け、百済へ帰り百済王となった。
しかし、唐・新羅連合軍と刃を交える戦術で、福信と決定的に対立し豊章は福信を殺害した。
そして唐・新羅の連合軍の前に敗れ、百済王朝は完全に滅亡した。
その百済王朝の血をひく鎌足の息子が藤原不比等なのだ。
つまり、鎌足が父となり日本で生まれた子の藤原不比等は百済系の2世なのだ。
日本書記のハイライトは百済の観点からすれば、朝鮮半島における百済の滅亡である。
その滅亡は663年、白村江海戦での倭の水軍の壊滅的崩壊だ。
敗戦後、近江令の制定、壬申の乱、藤原京の造営、「日本」の国号、「天皇」の称号の採用などが目白押しであった。
その急展開の背景には唐の使節や軍人が繰り返し来日しているという事実がある。
郭務悰が唐からつれて来日した数は2000人にもおよびそれは占領軍といってもよい。
つまり倭の体制は崩壊し、唐帝国のシステムを模倣する方向に向けて大転換がおこったのだ。
その過程で、倭は「日本」という国号を持ち、律令制が導入され。都城が建設された。
その大転換期に藤原不比等による百済王家の日本における再考が画策されていた。
藤原京につづく平城京の造営は、そのような国際的共同作業の脈絡でもとらえうるのである。