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彩遊記

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遊牧の民

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鹿児島大学の集中講座で訪れた内モンゴルの草原はすばらしく空が高く、澄み渡っていた。

太陽の光はまぶしいが、肌に触れる大気はすがすがしい。草原のなかに突然あらわれたオレンジ色をした水面の塩湖と、その近くにある工場では、真っ白な塩が舞う中、顔つきだけでは漢族ともモンゴル族とも見分けのつかない人々が働いていた。

現在、モンゴルは2つの国に分かれている。第2次大戦のあと、一方はソビエトの影響下に入り現在はモンゴル国(外モンゴル)となり、もう一方は内モンゴルとよばれる中国の自治区となった。

どこまでも続く草原地帯が、国境の存在を忘れさせてくれるのか、外モンゴルと内モンゴルの関係は、朝鮮半島のように南と北が対峙する緊張関係ではなさそうだ。

古代よりユーラシアと呼ばれる地域では、農耕や狩猟に放牧が組み合わさり、そこを民が動いた。民が点として定住をはじめた都市と、面として動いた遊牧社会が構成されてきた。そこで活躍したのが、ノマドとよばれる遊牧民たちだ。

ノマドは夏と冬の居住地を変えながらたえず移動を繰りかえし、さまざまな土地で生活をはじめ、都市や国までもつくっていった。

もともと遊牧民の「遊」という字は、ぶらぶらと過ごすことではなく、動きまわることであり、出かけることだった。

甲骨文字を独自の方法できわめた白川静は、「遊」を、一族の守り神である旗をひるがえし、旅に出る姿だと読み解いた。

大陸の各地に分散する勢力を併合し中国の統一を完成させたのは、いうまでもなく秦の始皇帝だ。それまでは「東夷・南蛮・西戎・北狄」の遊牧系の諸国が、洛陽の盆地をめぐって攻防をくりかえしていた。

勝ち抜いた始皇帝はまた万里の長城も築く。明の時代になると長城は、シルクロードの要衝、嘉峪関まで伸びた。当時の支配者はなにがなんでもわが領土を囲いたかったのだろう。以前この城壁の上に立ち周囲を眺めたことがあるのだが、南へ向かって土の盛り上がりが細い一筋の線になっていた。

この程度の土盛りだけで大丈夫なのかとガイドに尋ねてみると、「馬が越えない高さです」との答えが返ってきた。

集中講座では、「モンゴル族」の暮らしも垣間見たのだが、ちっちゃな女の子までが巧みに馬を乗りこなしていた。

中央アジアに転々と出現した遊牧の民のルーツをさかのぼってみると、ヨーロッパとアジアの間にあらわれた騎馬民族のスキタイにまでさかのぼる。

日本人は、ウラル・アルタイ語族の末裔らしいが、どうやらユーラシアの草原を走り回った遊牧の民が一枚絡んでいるのかもしれない。
 
by ogawakeiichi | 2011-10-01 11:47 | 南日本新聞コラム
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