いちき串木野市にある冠嶽を散策した。
西岳の山頂からは東シナ海、薄っすらと開門岳、桜島が望め、眼下には、深緑色の奥山から里山へと連なる日本の風景が見渡せた。
山岳信仰のある冠嶽は嶽と里山をめぐる「おへんろみち」があり、山中にはお寺や神社、神様を祀る小さな祠が点在する。
祠のなかには両手でクサリを掴み、足元に全神経を集中させて登らなければならない岩場もあり、やんちゃな頃の冒険心が甦る。
ふもとの徐福の里にはチャイナモード満載の家屋と庭園の「冠嶽園」がある。
ある日の昼下がり、コスプレモードの女の子たちが中国風の建築をバックにミニ撮影会をやっていた。
冠嶽は、徐福が秦の始皇帝の命を受け多くの子供と技術者を伴って、不老長寿の薬草を求めてやってきたところといわれ、真言宗・鎮国寺への登り口には日本一の大きさを誇る徐福の像が故郷をしのぶがごとく、東シナ海を向いて建てられている。
徐福渡来の物語は、佐賀県武雄市や和歌山県新宮市などが有名だ。伝承は日本だけではなく韓国にもある。
様々な場所に伝承が残っているのは、徐福の集団が移動しながら分散していったのかもしれない。
さて、徐福とはいったい何者だろう。なぜ、いちき串木野市周辺に徐福伝承があるのだろうか?
ひょんなことから、この謎を求めて、徐福を追うことになった。
なにしろ徐福が来たのは2200年以上も前のことで、まったく手がかりがない。
フィールドに出て、観察してうわさを聞いて資料に当たり直感からイメージをつくり、デザインを立ち上げていく方法で、2200年前にやってきたであろう徐福の気持ちになってみることにした。
徐福は、中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)に生きた方士だ。
方士とは、仙人のことで、様々な術の使い手だ。術を現代のことばに置き換えれば、さしずめ東洋のサイエンティスト。
徐福集団は食物や酒、鉱物、漢方の知識はもちろん、当時の学問である陰陽五行や風水学の使い手でもあったはず。
陰陽五行や風水学は、世界を構成する要素の循環と、大地の氣の流れから土地の吉凶禍福を決める古代中国思想。平たく言えば、現在の環境学や地政学、地質学といったところだろうか。
徐福の古代サイエンティスト集団は、冠嶽から川が流れ、里山が嶽を囲むという風水の理想的な姿を海から眺め、土地のもつパワーと、そこでとれる良質の幸の恵みを感じとったのかもしれない。
徐福の船団が着いたとされる照島の神社には、よくよく調べてみると、秦の始皇帝とのつながりを示すかのような「秦氏の氏神」と、徐福を暗示するかのような、医薬・穀物・お酒の神も、他の神様に混じり祀られていた。
徐福ロマンにとり憑かれ、ほぼ一年。最近では海岸から仰ぐ冠嶽が、なんとピラミッドパワーを放つ山にもみえてきたのである。(笑)