う~ん、。。日本の国家デザインを振り返っていると、再び南北朝から明治維新への文脈に立ち止まってしまった。
極めつけは、水戸学から唸りをあげて明治へ向かう流れなのだが、これまでなんど組み換え、整理してきたのだろうか。振り返るたびに見方が変わっていく。
それを揺るがす大元は水戸学なのだが、ここがなかなか定まらない。
なぜ、水戸光圀が「日本の面影」の正体を知ろうとしたのか。そのキッカケをつくったのは中国人・朱舜水なんだけど。。。またまた振りかえり~。
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朱舜水は、光圀に「日本のレジティマシー」について研究しなさいと言った。
正統な天皇は、南朝なのか北朝なのか・・それについて水戸は「水戸彰考館」なる歴史編集研究所を立ち上げ、「大日本史」の編集にとりかかった。
そこで見えてきたのが、南朝を正統とする見方であった。
日清、日露戦争でも、太平洋戦争の渦中でも南朝の楠木正成は「忠君愛国」の象徴として君臨してきた。
楠木一党は、元来「悪党」だった。悪党といっても現代の文字面の意味ではない。
悪党とは現在の言葉になおせばアウトローだ。ということは水戸藩にとって、すなわち「天皇と無頼」という系譜こそが日本の正統だったわけになる。
徳川幕府にとっても日本の正統性をどう見るかの問題が巻き起こる.この問題については誰もが悩んだ。
「徳川の日本」には。大まかには3つのモデルがある。
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一つは慕夏主義。
二つ目は、水土主義。
三つ目は中朝主義。
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慕夏主義とは、中国の奥にある神話的中国王朝。中国の分母的なもので、過去の偉大な国にモデルを求めていけば後の王朝は作られるという考え方で、奈良朝がつくった平城京モデルは唐の律令モデルを真似たもので、さらに唐朝は、夏や周のモデルを想定したものだった。
2つ目の水土主義は自分の国にあったモデルをつくったほうがいいという考えかた。いいかえれば、どんなモデルも日本的に改変したほうがいいと言うモデルである、これは熊沢蕃山がらが提唱した。のちに貝原益軒を含めた日本の本草学や吉宗の国産物産論へとつながっていく。
3つ目のモデルが「中朝主義」で、山鹿素行らが推進した。この中朝主義をひとことで言えば、「中華」という思想を日本へそのままもってこようというもので、自分の国を世界の中心と考える思想だ。この中朝主義がなにやらかにやら引用されて問題を引き起こしていく。
中国は三〇〇〇年に渡ってずっと華夷秩序にもとずいた中華帝国を理念としてきた。そこからみれば日本はつねに辺境でしっぽをふって言うことを聞いている間は認めるが、勝手は許さないというやつだ。これはいまでも中国のお家芸である。
しかし、その当時、中国は漢族の明朝だったのだが、それが異民族である満州族にとって変わったのだ。
これは日本にとっても、思想の一大事!
つづく・・