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彩遊記

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徐福伝承を検証してみる。【壱】

徐福伝承を調べてみる

徐福伝承を検証してみる。【壱】_f0084105_14145494.jpgこのテーマに取り憑かれ、昨年末はいちき串木野の図書館に篭もり、文献に首ったけとなる。

いちき串木野の図書館は、さすがに徐福伝承のある街らしく、徐福コーナーが完備している。それらの本を片っ端からめくり、気になったことを書き移し、記憶に止め、フィールドにでて確認する作業に没頭した。

では、徐福がいちき串木野へやってきた伝承はどこからはじまったのだろう。

まず、いちき串木野市に徐福伝承があることは室町時代の学僧、桂庵玄樹が『島隠漁唱』文明11(1479)年に詠まれたひとつの詩文より広まった。

それ以外でも紫尾文書(冠嶽神社宮司さんの話)から上宮岳神社(古紫尾神社)の縁起に「徐福来たりて、紫の紐をこの地に納む」の記録があることを知るが、この桂庵玄樹による『島隠漁唱』の影響が大きい。

徐福曾従海外来 初知日域是蓬莱

仙園花木春常有 祝得邦君萬壽盃

仙楽花飛絃管楼 満筵佳士喜清遊

主人有徳境彌顕 一岳高擎冠九州

従一神人来脱冠 仙山景象遶天壇

層岩萬丈絶巓水 雨不添深旱不乾


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冠岳は徐福が楼船に乗って蓬莱の薬を求め、初めて下り立った地。景色と人の素晴らしさに敬意を示し、冠を脱いだのでその名がある。徐福は釈服に着替えて 栖止した。このような霊地はまさしく蓬莱であり、冠岳に太守と同席していることは千載一遇。(引用先あり)
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さて、桂庵玄樹とはどのような人物だろう。

桂庵は周防、いまの山口県で生まれ、惟肖得巌に学び、遣明船で明に副使として文明十年(一四七八年)に薩摩に招請され、五十二歳からの三十年間を文教に捧げた。その遣明船には、日本水墨のトップランナーである雪舟が乗っていた。以前ブログでもとりあげたことがある。

彼は一四七九年、当時の藩主島津忠昌と共に冠岳に住職を尋ねている。

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西嶽の形、風折烏帽子に似たり、故に冠嶽と称す(略)又一説に孝元帝の御宇、秦の徐福来て王冠を留めし故、冠嶽と称す(略)徐福此嶽より紫尾山に至り、又去て紀州熊野山に至る、皆熊野権現の祠を建つといふ、此説真偽知るべからず、といへども、旧記に随て是を記す、紫尾山は鶴田邑に詳なり(天保14(1843)年の『三国名勝図絵』、串木野・出水・冠嶽の項)
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と書いてある。もうこのころには冠岳で封禅の儀式がなされたことは通説となっていた。
by ogawakeiichi | 2012-03-19 14:01 | 鹿児島情報史
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